下山殿下山殿(しもやまどの、永禄7年(1564年)? - 天正19年10月6日(1591年11月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康の側室[1]。武田信吉の母[1][2]。名は、おつまの方[1]、都摩[2]、津摩。秋山夫人とも称される。 生涯永禄7年(1564年)に生まれる。父は秋山虎康[2][1][注 1]。『徳川幕府家譜』では「武田信玄の六女」とする説を採り上げている。 後に同族の穴山信君の養女となる。下山殿の由来は、信君が甲斐国河内領の下山(身延町下山)に本拠である下山館を持っていたためであると考えられている[要出典]。 天正10年(1582年)、穴山信君が織田氏に臣従した際に、織田信長と同盟関係にある徳川家康の側室となる。天正11年(1583年)、家康の五男・万千代(武田信吉)を出産する。信吉は前の主君・武田信玄の娘で養父の正室である見性院の養子とした。良雲院と家康の間に生まれた家康三女の振姫の母も下山殿とする説もある[要出典]。 天正19年(1591年)10月6日、死去[3]。享年24[1](享年28など諸説あり)。戒名は長慶院殿天誉寿清大姉(『幕府祚胤伝』では院号を「妙眞院」とする。『寛政重修諸家譜』では、日上妙眞院[4])。下総国小金の本土寺の門前に葬られる[4]。のち、徳川光圀により、同寺の境内に改装された[4]。 家族○出典:『寛政重修諸家譜』[3] 略系図凡例 1) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
脚注注釈出典参考文献
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