下山 (身延町)
下山(しもやま)は、山梨県南巨摩郡身延町の地名である。郵便番号は409-2522[2]。 地理富士川の西岸に位置しており、南北に集落が伸びている。北側は早川との合流地点であり、また南側は梅平まで峠が続くことから古くから交通の難所となっている。 歴史江戸時代後期の『甲斐国志』によると、八日市場宿から一里五町、南部宿から四里一五町とある[4]。南松院所蔵の大般若経奥書によれば、地域拠点として「下山」の地名が見られ、応永25年(1418年)10月28日付小笠原政康宛足利義持御教書(「勝山小笠原文書」)にも駿州往還(河内路)の要衝であった南部(南部町南部)と並び「下山」の地名が記載されていることから、南北朝・室町時代には河内領における南部と並ぶ拠点地域であったと考えられている[5]。 戦国時代には、河内地方の国衆・穴山氏は南部を政治的拠点としていたが、武田氏に従属した穴山信友の時代には本拠を下山に本拠を移転し、下山館が築かれた。以来、戦国期には南部とともに河内地方の拠点として機能した。 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が発生すると、上方にいた穴山信君は脱出する途上の6月3日に一揆に襲撃され落命する。徳川家康は6月5日に三河国岡崎城へ帰還すると同時に甲斐国における工作を開始する。下山には信君の子息である勝千代がいたが、幼少であったため6月6日に家康は駿河にいた家臣の岡部正綱を派遣し、下山に菅沼城を築城させる。 穴山氏は勝千代の死去により廃絶し、徳川家康の五男・万千代(武田信吉)により継承され、天正18年(1590年)に転封され甲斐国を離れる。江戸時代には下山は政治的拠点としての地位を失うが、本陣や問屋、会所などが整備されていた記述がある。また河内地方には下山大工という大工集団が住んでおり、身延山久遠寺門前の身延大工とともに、主に河内地方を縄張りとして寺社の造営や改修を行っている。江戸時代になるとや駿州往還が整備され、富士川舟運も開始されると当地も下山宿(しもやましゅく)が設置され、身延山参拝客の宿場町や舟運の中継地点として発展していった。 対岸の大河内村とは「八木沢の渡し」および「帯金の渡し」などの渡し船で繋がっていたが、対岸の波高島地区に身延線が通り1927年(昭和2年)に波高島駅が開業すると架橋が試みられるようになり、 戦後トラス橋が架けられ下山地区から身延線をするものが増える一方でこれまでの渡し船は廃止されていった [6]。 一方駿州往還だった街道も1934年(昭和9年)に早川橋が架橋されて自動車の往来が可能となり、さらに新早川橋の架橋をはじめとする道路整備により国道52号に指定されるとモータリゼーションの発展により自動車の往来が増大し、道路拡幅や路車分離の整備を進める一方で住居移動などによりかつての古い町並みは影を潜めるようになる。 1889年(明治22年)の町村制の施行により「山梨県南巨摩郡福居村」となったが、1896年(明治29年)に「福居村」は「下山村」になった。1955年(昭和30年)に身延町、豊岡村・大河内村と合併して「南巨摩郡身延町下山」となり、2004年(平成16年)の平成の大合併後も字はそのままとなっている。 世帯数と人口2015年(平成27年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
交通道路
バス
中央高速バス身延線が通っているが、下山地区に停留所はない。北側にある新早川橋を渡ったところに飯富バス停があり、そこからバスタ新宿(新宿駅)へ向かうことが可能となっている。 鉄道下山地区に鉄道は通っておらず、対岸にある波高島駅を利用することになる。上沢寺交差点から徒歩20分程度、下山新町から徒歩30分程度を要する。 施設
脚注関連項目
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