上廣哲彦
上廣 哲彦(うえひろ てつひこ、本名:上廣 三郎[1]、1906年(明治39年)3月2日 - 1972年(昭和47年)10月6日)は、日本の社会運動家。実践倫理宏正会の創立者。栄典は従四位、勲三等旭日中綬章。 生涯1906年3月、広島県山県郡豊平町(現:北広島町)に生まれる。 広島市で育ち、旧制中学卒業後、鉄工所や日本貯蓄銀行(現在のりそな銀行)などに勤務。1923年頃死線を彷徨う大病をし、その中から人生の目的と使命を悟る[2]。 この後、人生の生き方についての哲学的な考察を深め、ひとのみち教団など様々な団体の遍歴をした。 1943年、三菱工作機械広島製作所(後の三菱重工業広島祇園工場)[3]に入社し、社員教育を行う訓育課勤務していた時の1945年8月6日、アメリカ軍の広島市への原子爆弾投下により、爆心地から1.6キロの国鉄横川駅構内で被爆した。 その後も放射能障害の持病を抱えながら人倫の道を説く。翌1946年5月3日広島の地で「実践倫理宏正会」の前身の生活倫理実践会「宏正会」を創設。 1946年9月18日、宏正会の中心的活動である朝起会を石川県小松天満宮で開始。以後、東京・大阪など全国各地で朝起会が開催される。 1948年4月1日、文部省より社会教育団体として公益法人としての「社団法人(当時)」の許可を受ける。それに伴い同年5月、会名を「社団法人実践倫理宏正会」に改称[4][5]。 1965年11月、文部省より社会倫理啓蒙の実績から藍綬褒章を受章する[6]。 原爆症との闘いの中で倫理普及活動を続け、1972年10月6日に逝去するまで倫理道徳普及に生涯を捧げた。死亡追叙で、従四位勲三等旭日中綬章を受章。 同年10月10日、東京都千代田区の日本武道館で、「上廣哲彦を偲ぶ会」が社団法人実践倫理宏正会によって挙行された[7]。 著書発刊:実践倫理宏正会出版部
教育倫話集 1と2以外は、1978年に文庫形態で改訂新版が発刊されている。なお、文庫化に際し『わが子に与う』と『実践倫理の第一歩』は合本されて発刊された。『倫理常識講座(上巻・下巻)』も上下巻が一つに合本されて発刊された。 脚注
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia