三好生勝
三好 生勝(みよし なりかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。三好氏宗家の継承者とされる[3]。 生涯広島藩士の三好氏に伝わる系図によると[4]、生勝は若江三人衆の1人である多羅尾綱知と三好宗家当主である三好義継の妹との間に生まれたという[5]。三好三人衆の1人である三好宗渭に養育され、三好義継の名跡を継いだとされる[4]。義継の名跡を継いだことは織田信長に認められており、河内国で5,490石を領している[4]。 史料上の初出は、天正7年(1579年)10月の津田宗及の茶会の記録で、生勝は既に三好姓を名乗っていた[6]。この頃行われていた大坂本願寺との戦いでは生勝も出陣を命じられ[7]、負傷しながらも軍功を挙げて、信長から感状と甲冑・陣羽織・短刀を与えられた[4]。 天正20年(1592年)に始まる文禄の役の際は、肥前名護屋城に在陣した[8]。その後、豊臣秀吉の正室である北政所の付属となり[8]、関ヶ原の戦い後は豊臣秀頼に属した[9]。後に福岡藩主・黒田長政に仕え、慶長14年(1609年)に2,000石を与えられた[10]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では長政の嫡男・忠之に従い[11]、河内国の案内人として黒田軍の先陣を務めたという[9]。 元和7年(1621年)、生勝は家督を長男の生高に譲り、天龍寺で隠居するため京都に向かったが、広島藩主の浅野長晟に誘われ、2,000石で仕えた[12]。生勝の息子2人も同時に広島藩に仕え、それぞれ500石を知行した[13]。 子女生勝の長男・生高は福岡藩に仕えていたが、寛永15年(1638年)に広島藩へと移った[13]。寛永16年(1639年)、2代藩主・浅野光晟より300石を与えられている[15]。後年、生高の系統の三好家には5代藩主・浅野吉長の弟である[11]長賢の子の房高が養子として入っており、房高は1,000石の年寄役を務めた[16]。 生勝の二男・七郎右衛門は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方として戦死した[17]。 生勝の四女は摂津平野の有力者・土橋九郎右衛門重俊の後妻となっている[17][18]。平野は生勝が付属させられた北政所の所領であった[19]。土橋重俊の前妻は道頓堀を開削したことで知られる成安道頓の娘である[17][18]。 脚注
参考文献
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