三光丸
三光丸と米田氏三光丸の創製は鎌倉時代末にさかのぼるとされ、当主の米田(こめだ)家には「『三光丸』の名を後醍醐天皇より賜った」という伝承がある。米田家は、鎌倉時代中期から戦国時代末にかけて南大和(現在の御所市・橿原市・高市郡)に勢力を伸ばした豪族越智氏(大和越智氏)の庶流であり、天正年間に越智氏が滅亡すると、他の有力な家臣団と同様、故地にとどまって帰農した。 同家はまた、農業のかたわら、三光丸をはじめとする家伝薬の製造を副業とした。このことは、越智氏隆盛の頃より米田氏が医薬を担当していたという伝承を裏付けている。 江戸時代に入り、越中国富山と前後して大和国でも配置売薬(いわゆる置き薬)が始められたが、江戸後期に入ると、三光丸の米田家は南大和の同業者を束ね、大和売薬発展の一翼を担った(参考:[1])。この頃、大和売薬は富山売薬に次ぐ勢力に成長し商圏を各地に広げていたが、幕末期に至り、各地で富山と大和の業者が競合し、値引き・中傷合戦を呈しはじめた。 慶応2年(1866年)、これを憂慮した三光丸の当主米田丈助(じょうすけ)は、越中国富山の総代3名、加賀領総代2名を招き、大和の売薬業者72名を集めて話し合い、業務協定を結んだ。その内容は『仲間取締議定書連印帳(なかまとりしまりぎじょうしょれんいんちょう)』に記され、それぞれの代表が一部ずつ保管した(大和の『連印帳』は三光丸クスリ資料館にて展示公開中)。 配置家庭薬(配置薬)をはじめとする医薬品の製造・販売は、現在も奈良県の主要な地場産業のひとつであり、医薬品の配置販売業も富山県に次いで盛んである。 沿革
営業所御所営業所、奈良営業所、秋田北営業所、秋田仙北営業所、福島営業所、新潟東営業所、沼津営業所、静岡営業所、四日市営業所、岐阜営業所、岡山営業所、福山営業所 トピックス偽薬対策明治の頃から日本各地で三光丸の偽薬が数多く出回り問題となっていた。1884年(明治17年)に商標条例が制定されるとすぐに、三光丸の当主米田德七郎は「日・月・星」の商標登録願いを提出、偽薬対策を開始した。 当時、日本の民間薬や売薬に対する明治新政府の政策はたいへん厳しいものであり、このときには受理されなかったものの、10年後の明治27年(1894年)から商標登録が認められ、以後「三光丸」の名称や「五角形の包装形態(通称火打石型)」など、次々と商標登録、実用新案登録を行った。 三光丸同盟会1899年(明治32年)、当時の本店当主米田德七郎虎義(寅義)は、三光丸の配置業者からなる販売組織を結成し、得意先の地域割りと卸段階での現金売買主義、商標厳守などを徹底させて販売力強化を図った。これまでの売薬行商における古い商慣習を打ち破る画期的な試みであり、現在配置業界で一般的に行われている帳主会、協同組合の嚆矢とされる。米田德七郎らはその後もさらに規約の整備を推し進め、1904年(明治37年)には組織名を「三光丸同盟会」とした。同会は、三光丸の配置販売組織として現在も機能している。 大相撲の懸賞幟(のぼり)大相撲の平成8年春場所において、15日間の好取組に懸賞をかけた。以来、場所中は結びの一番に懸賞をかけることにしている。このとき土俵上を巡る懸賞幟は、横70cm、縦120cmで黄色地に黒色で「三光丸」の三文字のみを配したものである。なお、この黄色地に黒文字のみというデザインが目立つことからか、最近、同様の配色をほどこした幟が増える傾向にある。 スポットCM1970年(昭和45年)頃から秋田放送、新潟放送、静岡放送、中部日本放送などで三光丸のスポットCMを放送開始(後に奈良テレビ放送も加わる)。現在放送中のCMは、三光丸の新マスコットキャラクターである忍者「さんこう丸(まる)」が、分身の術を使って30人に分かれ、三光丸の袋に入っていくというもの。 三光丸クスリ資料館本店敷地内に2棟からなるクスリ資料館を開設、数千点におよぶ配置売薬に関する資料や古文書などを展示している。開館日時は平日9:00-16:00、入館無料。 注釈・出典関連項目外部リンク |