七星剣七星剣(しちせいけん)は、中国の道教思想に基づき北斗七星が意匠された刀剣の呼称。破邪や鎮護の力が宿るとされ、儀式などに用いられた。七星刀、七星宝刀とも。 中国における七星剣
古くは『呉越春秋』に、伍子胥が先の楚王から授かった百金の価値ある剣として、七星剣の記述がある。 日本における七星剣中国の道教思想に基づくとされる日本の直刀。歴史的価値を持つとされる七星剣が数点現存確認されている。 大刀契の七星剣三種の神器に次ぐ宝器としての位置づけにあった大刀契のうち、4世紀に百済王から倭王に奉献された二振りの霊剣護身剣と破敵剣は七星文などの意匠がある。護身剣は内裏に安置され、破敵剣は節刀に用いられた。天徳4年(960年)に焼失[1]、応和元年(961年)に安倍晴明・賀茂保憲らによって再鋳造された[2]が、寛治8年(1094年)に焼失した。 四天王寺所蔵の七星剣四天王寺所蔵の七星剣は、長さ62.1cm、切刃造りの鉄剣。国宝(1952年3月29日指定)。名前の由来は、七星文つまり北斗七星が描かれていたことによる。七星文の他には雲形文・三星文・竜頭・白虎などが描かれている。丙子椒林剣とともに聖徳太子の佩刀であるが、少なくとも鎌倉時代から錆身で拵えもなくなっている。作風は丙子椒林剣にくらべ、スラグの残留物が目立つものの、地金は小板目がよく練れ地沸が厚くつき、これに小沸ついた細直刃を焼く。戦後、小野光敬(人間国宝)によって研磨され、現在は東京国立博物館に寄託されている。 この七星剣にある楔形の象嵌は、長い間製法が謎とされていたが金工・柳村仙寿により再発見され、刀工・隅谷正峯の作刀により写された。以降多数の刀工金工により制作されている。 法隆寺の銅七星剣(七星文銅太刀)七曜剣、七曜御剣とも。七星文の他には雲形文・日・月が描かれている。かつては法隆寺金堂の持国天像の手にあり、聖徳太子の幼少期の守り刀であったと伝わる。増長天像の剣(無文銅太刀)と同様に銅剣である。明治11年(1878年)の法隆寺献納宝物に含まれたが、選定段階の明治9年(1876年)から返還が希望されていたが叶えられなかったもので、明治40年(1907年)に代わりに模造を作って持たせている。昭和22年(1947年)に数点の宝物とともに2本の銅剣は返還され金堂の四天王立像の手ではなく大宝蔵殿で公開、その後平成10年(1998年)に完成した大宝蔵院に移された。 正倉院の呉竹鞘御杖刀呉竹鞘御杖刀(くれたけさやのごじょうとう)は、七星文の他には雲形文や三星文が描かれ、竹で包んだ木鞘に納められた仕込み杖になっている。聖武天皇の七七忌の東大寺献物帳である国家珍宝帳に記載されており、正倉院には呉竹鞘御杖刀を含めて8本の七星剣が納められていたが、北倉の100本あった国家珍宝帳記載品の刀剣のうち藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で持ち出されたことによって現存するのは3本のみになっており、呉竹鞘御杖刀以外の七星剣は現存していない。 稲荷山遺跡の七星剣1983年、千葉県成田市の稲荷山(とうかやま)遺跡にて筑波大学による発掘調査で、鉄剣の一部が発見された。2003年、元興寺文化財研究所のX線調査により象眼跡の北斗七星を確認、四天王寺伝来の七星剣との比較などにより七星剣の一部であるとして2007年3月に発表された。七星剣が発掘された初のケースとなっている。9世紀頃に火葬によって埋められたものであり刀身自体はさらに古い時代のものと見られている。 その他の七星剣
七星剣(七星刀)が登場する作品
脚注・出典参考文献
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