ヴェルジー家の紋章
ヴェルジー家 (フランス語:Famille de Vergy)は、9世紀のメロヴィング朝 ブルグント王国 のヴェルジーを起源とする、フランス 最古の貴族の家系の一つ。7世紀までさかのぼるとも言われている[ 1] 。
ヴェルジー城
ヴェルジー城跡
堅固な城として知られたヴェルジー城は、ヴェルジー(現在のブルゴーニュ、ジュヴレ=シャンベルタン・カントンのルル=ヴェルジー)の岩の多い地に建てられた。この地に最初に要塞が建てられたのはローマ時代である。ヴェルジー城は1609年に破壊され、現在は遺跡はほとんど残っていない。
ヴェルジー領主
7世紀
文献によると最初のヴェルジー領主は、オータン司教聖レジェ(Léger d'Autun )の兄弟ゲラン・ド・ヴェルジー(ワラン・ド・ヴェルジーまたはゲラン・ド・ポワティエ)であるという。ネウストリア 宮宰 エブロイン(Ébroïn )は、聖レジェが殉教する前の674年に、ゲランを石で殺害した[ 2] [ 3] 。
9世紀 - 11世紀
ヴェルジーのサン=ヴィヴァン修道院の遺跡(11世紀)
最初のヴェルジー家は9世紀、オーヴェルニュ伯(818年)、シャロン伯 およびマコン伯ゲラン1世 (Warin Ier d'Auvergne )(760年頃 - 819年)に始まったとされる[ 2] 。
マナセ1世・ド・シャロン[ 4] (875年頃 - 925年頃) カロリング朝 フランク王国 のブルゴーニュ のシャロン 、ボーヌ 、ディジョン 、オーソワ、アヴァロン 、オシュレ(Oscheret )およびラングル の伯、ヴェルジー領主であった[ 5] 。プロヴァンス王ボソ の娘とみられるエルマンガルドと結婚した[ 6] 。910年頃、マナセと弟オータン司教ワロン(ワロ)はヴェルジーの地にサン=ヴィヴァン修道院を創設した。この修道院の修道士は650年間、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティ のワインであるロマネ・コンティ およびロマネ・サン=ヴィヴァンの2銘柄を作り続けた。また、聖ヴィヴァンの聖遺物がかつてはそこにあり、ノルマン人の侵入から守った[ 2] 。
ジルベール [ 7] (900年頃 - 956年) マナセ1世の子。シャロン、オータン 、ボーヌ、ディジョンおよびトロワの伯、ブルゴーニュ公 (952年 - 956年)
マナセ2世・ド・ヴェルジー(? - 925年) マナセ1世の子。オーソワ伯、ディジョン伯、ヴェルジー領主(918年 - 925年)[ 5]
ラウル・ド・ヴェルジー(? - 970年) マナセ2世の子。オーソワ伯、ディジョン伯、ヴェルジー領主(925年 - 970年)[ 5]
ジェラール・ド・ヴェルジー(950年 - 1023年) ラウルの子。ヴェルジー領主(970年 - 1023年)、男子継承者なく死去[ 5]
11世紀 - 12世紀
第二のヴェルジー家はアンリ1世 の庶子ウードとアンリが始祖である。
アンベール・ド・ヴェルジー(1000年 - 1060年) アンリの子、ヴェルジー領主(1023年 - 1030年)、その後パリ司教。ヴィヴァンのサン=ドニ司教座聖堂参事会教会を創立。アリックス・ド・ヴェルジーにより再建されたが、現在は塔のみが残る[ 3] 。
ジャン・ド・ヴェルジー(1053年没) ウードの子、子孫がヴェルジー領主を継承。孫のエリザベート・ド・ヴェルジー(1119年没)がシャテル=サンソワール領主サヴァリック(1120年没)(スミュール家 )と結婚。
ヴェルジーのサン=サテュルナン教会、12世紀(身廊のアーチのみ16世紀)[ 8]
12世紀、ルイ7世 はヴェルジーを王国で最も堅固な要塞と考えていた。この頃に現存するサン=サテュルナン教会が創建された。
1185年、ブルゴーニュ公ユーグ3世 がユーグ・ド・ヴェルジー(Hugues de Vergy )(1141年 - 1217年)に税金を課そうとし、18か月包囲したが、失敗に終わった。翌年、フランス王フィリップ2世 が包囲を解いた[ 2] [ 3] 。
1199年、アリックス・ド・ヴェルジー(Alix de Vergy )(1170年 - 1252年)はウード3世 と結婚し、ヴェルジー領およびヴェルジー城はブルゴーニュ公領に統合された[ 3] [ 5] 。
他に2家の分家があった。
ボーモン領主家(12世紀 - 13世紀) ユーグ・ド・ヴェルジー(1141年 - 1217年)の弟シモンを始祖とする。
ミルボー、フヴァン=サン=タンドッシュ、シャンリットおよびオートレイ領主家(1180年 - 1625年) アリックス・ド・ヴェルジー(1170年 - 1252年)の兄ギヨーム・ド・ヴェルジー(1180年 - 1240年)を始祖とする。アンリ1世・ド・ヴェルジー(Henri Ier de Vergy )(1205年 - 1258年)はギヨームの子である[ 5] 。この家は現在は断絶しているが、ミルボー、ブルボンヌ領主家などの多くの分家に分かれた。Champuant領主家は15世紀にブルゴーニュのセネシャルおよびマレシャル位を与えられ、1517年にはブザンソン 大司教となった。シャンリット伯家、オートレイ領主家および15世紀にフランスのマレシャル位を与えられたダンマルタン伯家も分家である。Fonvers領主家ではブザンソン大司教ギヨーム・ド・ヴェルジー(Guillaume de Vergy )が1391年に枢機卿となった[ 9] 。
ヴェルジー城の城壁の跡(9世紀)
その後のヴェルジー城(13世紀 - 17世紀)
1477年のブルゴーニュ公シャルル の死後、他のブルゴーニュ領とともに、ヴェルジー領およびヴェルジー城はルイ11世 により王領とされた。王はヴェルジー城をすぐにギヨーム4世・ド・ヴェルジー=オートレイに与えた。
1609年、カトリック同盟 の参加者であったマイエンヌ公シャルル に従い、アンリ4世 はヴェルジー城を完全に破壊した[ 3] 。
ヴェルジー村は、現在は完全に消滅している。
系図
ゲラン1世 (c.760-819) オーヴェルニュ伯 シャロン伯
マナセ1世 (c.875-c.925) シャロン伯
エルマンガルド (プロヴァンス王ボソ 娘)
エルマンガルド (ブルゴーニュ公リシャール 娘)
ジルベール (c.900-956) シャロン伯 ブルゴーニュ公
マナセ2世 (-925) ヴェルジー卿
ロベール・ド・ヴェルマンドワ モー伯
アデライード
ランベール (930-978) シャロン伯
ラウル (-970) ヴェルジー卿
ユーグ1世 (972-1039) オセール司教 シャロン伯
アンリ1世 (946-1002) ブルゴーニュ公
マオー ドンジー女卿
ジョフロワ1世・ド・スミュール
ジェラール (950-1023) ヴェルジー卿
(庶子) アンリ
(庶子) ウード
アランブルジュ (999-?)
ダルマス1世 スミュール卿
アンベール (1000-1060) ヴェルジー卿 パリ司教
ジャン (-1053) ヴェルジー卿
スミュール家
ジョフロワ1世 ドンジー卿
ロベール (?-1070) ヴェルジー卿
エルヴェ ドンジー卿
エリザベート (-1119)
(?) サヴァリック (-1120) シャテル=サンソワール卿
シモン ヴェルジー卿
ギー ヴェルジー卿
ユーグ (1141-1217) ヴェルジー卿
シモン
ウード3世 ブルゴーニュ公
アリックス (1182-1252)
ギヨーム (1180-1240)
ボーモン卿家
ブルゴーニュ家
ミルボー卿家
脚注
^ "Vergy", in :Marie-Nicolas Bouillet and Alexis Chassang (ed.), Dictionnaire universel d'histoire et de géographie , Paris, 1878, 25e édition (Wikisource )
^ a b c d P. Guinard, Recherches sur les origines des seigneurs de Semur-en-Brionnais, Semur-en-Brionnais, 1996.“アーカイブされたコピー ”. 2004年5月24日時点のオリジナル よりアーカイブ。2009年10月1日 閲覧。 (2006年12月1日閲覧)参照。
^ a b c d e L'association L'Abbaye de Saint-Vivant (2006年12月1日閲覧)Archived 2008年9月23日, at the Wayback Machine .
^ MANASSES II in Medieval Lands
^ a b c d e f Portail Histoire Bourgogne Franche-Comté (2006年12月1日閲覧)
^
Heratlas (2006年12月1日閲覧)Archived 2007年5月13日, at the Wayback Machine .
^ Gilbert (Giselbert), son of Manasses in Medieval Lands
^ L'association L'Abbaye de Saint-Vivant (2007年10月16日閲覧)[1]
^ Jougla, 6, 434, No.34472.
参考文献
André Duchesne, Histoire généalogique de la maison de Vergy , Paris, 1625[2]