ヴァロワ=ブルゴーニュ家ヴァロワ=ブルゴーニュ家(仏:maison de Valois-Bourgogne)は、フランスの王家ヴァロワ家の分枝の一つで、ブルゴーニュ公国を統治した一門である。 単にブルゴーニュ家と言った場合にこの家系を指すことも少なくないが、他にカペー家系ブルゴーニュ家(その分家からポルトガル王家のブルゴーニュ家が出ている)や、ヴァロワ=ブルゴーニュ家以前にブルゴーニュ伯の家系であったアンスカリ家(その分家からカスティーリャ王家のブルゴーニュ家が出ている)を指す場合もあるので、注意を要する。 概要→「ブルゴーニュ公国 § 歴史」も参照
1361年、カペー家系ブルゴーニュ家最後の男系当主フィリップ1世が嗣子無くして没したため、ブルゴーニュ公領はフランス王領に併合された。1363年、フランス王ジャン2世は、末子フィリップ(豪胆公)にブルゴーニュを下賜した。 次のフランス国王シャルル5世は、百年戦争におけるイングランドとの対立を背景に、フィリップ豪胆公とブルゴーニュ女伯・フランドル女伯マルグリット3世を結婚させた。 こうして、フランス北東部からドイツ北西部にかけて一大勢力が誕生した。以後、フィリップ豪胆公とジャン無怖公はブルゴーニュ派領袖として、フランス王国内でオルレアン派のちアルマニャック派と激しく対立し、イングランドにも接近した。三代目のフィリップ善良公もイングランド寄りの姿勢を継続したが、1435年にアラスの和約によりアルマニャック派と和解した。その結果、百年戦争はフランス側の勝利に終わった。 フィリップ善良公は、在世中フランドルの各都市に拠点を置き、同地は文化的にも成熟した。しかし、次代のシャルル突進公は、勢力拡大と王国への昇格を目論んでブルゴーニュ戦争を起こした末、1477年初頭に戦死した。遺児マリーは、ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したが、1482年に事故死し、ヴァロワ=ブルゴーニュ家は断絶した。その遺領の多くは婿入りしたハプスブルク家に受け継がれ、同家に飛躍的な発展をもたらした。 系図
ヴァロワ=ブルゴーニュ家が獲得した主な称号、所領関連項目 |
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