ヴァイナー・ブルック
サー・チャールズ・ヴァイナー・ブルック(Sir Charles Vyner Brooke, Rajah of Sarawak, GCMG、1874年9月26日 - 1963年5月9日)は、サラワク王国の第3代かつ最後のラージャ(藩王)である。 若年期ヴァイナーは、第2代ラージャ・チャールズ・ブルックとその妻マーガレット・ド・ウィントの間の子供である。ロンドンで生まれ、そこで少年時代を過ごした。ウィンチェスター・カレッジを経てケンブリッジ大学モードリン・カレッジを卒業した後[1]、父が統治するサラワク王国の公務員となった。 1897年に父の副官、1898年にシマンガン地区の地区担当官、1902年にムカとオヤの総督、1903年に第3管区総督、1904年に裁判所長官および最高・一般審議会副議長となった。 1911年にイギリスに渡り、1911年5月12日に陸軍ロンドン第3州ヨーマンリーの狙撃兵部隊に少尉として任官したが、1913年5月21日に退任した。第一次世界大戦中には、身分を隠して海軍の対空防衛部隊に勤務し[2]、また、ロンドン東部・ショーディッチの飛行機製造工場で整備士として働いた。 1911年6月22日、イギリス国王ジョージ5世より"His Highness"(殿下)の称号を授与された。1911年2月21日、イーシャ子爵の娘のシルヴィア・ブレットと結婚し、その後サラワクに戻った。 サラワクのラージャ1917年5月17日に父チャールズが死去した。同年5月24日にクチンにて第3代ラージャとして宣言され、翌1918年7月22日にサラワクの議会(ネグリ・センビラン)にて宣誓を行った。父の遺志に従って弟のバートラムと共同で統治を行った。治世の初期に国内のゴム産業と石油産業が活況となり、それにより国内の経済が好況となったため、ヴァイナーは公共サービスなどの国の制度を近代化し、1924年には英領インドのものを元にした刑法を導入した。 1927年にイギリスの爵位を授けられた[3]。 ヴァイナーは国内でのキリスト教の宣教を禁止し、土着の伝統を尊重する(ただし首狩りは禁止した)など、比較的放任主義的であり、国民からの支持も高かった。1941年、建国100年を記念して憲法を制定し、立憲君主制に移行した。ヴァイナーは、憲法でラージャとしての権限を制限する代わりに、個人的な経費として20万ポンドを財務省から引き出した[4]。 第二次世界大戦1941年12月16日に大日本帝国軍がミリに上陸してボルネオ島への侵攻を開始し[5]、12月24日には首都クチンが陥落して、サラワクは終戦まで日本の軍政下に置かれた。ヴァイナーとその家族はオーストラリアに亡命した。 退位とその後終戦後の1946年4月15日、ヴァイナーはサラワクに戻り、一時的にラージャとしての権限を取り戻したが、同年7月1日、サラワクを王冠植民地としてイギリス政府に譲渡した。 ヴァイナーはイギリスに戻り、1963年5月9日にロンドン・ベイズウォーターのアルビオン通り沿いの自宅にて死去した。その4か月後の9月16日には、サラワク、マラヤ、北ボルネオ、シンガポールが統合してマレーシアが成立した。遺体は、父や弟らとともにデヴォン州シープスターのセント・レオナード教会に埋葬されている。 ヴァイナーの甥(バートラムの息子)のアンソニー・ブルックは、サラワクの公務員や判事を務め、1937年にはラージャ・ムダ(王太子)に就任した。これは、ヴァイナーの子供が全て女子だったためである。アンソニーはサラワクのイギリスへの譲渡に反対しており、これはネグリ・センビランの多数派である先住民の議員も同様だった。彼らは5年間に渡り譲渡反対運動を展開した。1948年12月、シブにおいて第2代サラワク総督ダンカン・スチュワートが若い民族主義者ロスリ・ドビに襲撃され死亡したことで、反対運動は下火となった。アンソニーはこの事件への関与が疑われたが、後にイギリス公文書館が機密解除した文書により、アンソニーは無関係であることが判明した[6]。 家族ヴァイナーには3人の娘がいた。彼女らの名前には、マレー語でレディに相当する称号である「ダヤン」が冠されることがあった。
ヴァイナーに因む物1927年にサラワクで進水した客船には、ヴァイナーに因んで「ヴァイナー・ブルック」と命名された。この船は、1942年に日本軍の攻撃を受けて沈没した(バンカ島事件)。 脚注
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