ヒュー・ダグラス・ハミルトン による、1800年代の肖像画。
初代ロンドンデリー侯爵 ロバート・ステュアート (英語 : Robert Stewart, 1st Marquess of Londonderry PC (Ire) 、1739年 9月27日 – 1821年 4月6日 )は、アイルランド王国 出身の政治家、貴族。1771年から1783年までアイルランド庶民院 議員を務め[ 1] 、以降妻の親族や同じく政治家になった同名の息子 の助力を借りて、一代で平民から侯爵に叙された[ 2] 。
生涯
アレグザンダー・ステュアート (英語版 ) (1781年4月2日没)とメアリー・コーワン(Mary Cowan 、ジョン・コーワンの娘)の息子として、1739年9月27日にダブリン で生まれた[ 3] [ 2] 。ジュネーヴ大学 で文学を学んだのち、グランドツアー に出て、1760年代に帰国した[ 2] 。
1766年にアイルランド総督 の初代ハートフォード伯爵フランシス・シーモア=コンウェイ の娘と結婚したことで、総督からアイルランド貴族 への叙爵を打診されたが、これを拒否し[ 2] 、代わりに1771年から1783年までダウン選挙区 (英語版 ) の代表としてアイルランド庶民院 議員を務めた[ 1] 。1782年9月17日、アイルランド枢密院 (英語版 ) の枢密顧問官に任命された[ 3] 。
1783年アイルランド総選挙 でキルワーリン子爵アーサー・ヒル (英語版 ) に敗れたが、2人目の妻の実家であるカムデン伯爵家に頼り[ 2] 、1789年9月20日にアイルランド貴族 であるロンドンデリー男爵 に叙された[ 4] 。さらに妻の弟にあたる第2代カムデン伯爵ジョン・プラット (英語版 ) がアイルランド総督に就任すると、ステュアートは1795年10月1日にカースルレー子爵 に[ 5] 、1796年8月8日にロンドンデリー伯爵 に昇叙された[ 6] 。
息子が主導した1800年合同法 を支持し[ 2] 、1801年のグレートブリテン及びアイルランド連合王国 成立に伴いアイルランド貴族代表議員 に選出され、1821年まで務めた[ 3] 。1801年から1821年までダウン県首席治安判事 (英語版 ) を、1803年から1821年までロンドンデリー県首席治安判事を務めた[ 3] 。息子の功績により[ 2] 、1816年1月18日にロンドンデリー侯爵 に昇叙された[ 3] 。
1821年4月6日にマウント・ステュアート (英語版 ) で死去、9日にニュータウナーズ (英語版 ) で埋葬された[ 3] 。先妻との息子ロバート が爵位を継承した[ 3] 。
『アイルランド人名事典 』は初代ロンドンデリー侯爵を「優秀な息子により影が薄くなった」と評した[ 2] 。
家族
1766年6月3日、サラ・フランシス・シーモア=コンウェイ(Sarah Frances Seymour-Conway 、1747年9月27日 – 1770年7月18日、初代ハートフォード伯爵フランシス・シーモア=コンウェイ (後の初代ハートフォード侯爵)の娘)と結婚[ 3] 、2男をもうけた[ 7] 。
アレグザンダー・フランシス(1767年 – 1769年5月[ 7] )
ロバート (1769年6月18日 – 1822年8月12日) - 第2代ロンドンデリー侯爵、外務大臣[ 3] 。一般的には「カースルレー子爵」の儀礼称号で知られる
1775年6月7日、フランシス・プラット(Frances Pratt 、1751年ごろ – 1833年1月18日、初代カムデン男爵チャールズ・プラット (のち初代カムデン伯爵)の娘)と再婚[ 3] 、3男8女をもうけた[ 7] 。
出典
^ a b "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800" . Ulster Historical Foundation (英語). 2020年7月14日閲覧 。
^ a b c d e f g h Geoghegan, Patrick M. (October 2009). "Stewart, Robert" . In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi :10.3318/dib.008310.v1 。
^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1932). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Lindley to Moate) (英語). Vol. 8 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 110.
^ "No. 13131" . The London Gazette (英語). 9 September 1789. p. 597.
^ "No. 13821" . The London Gazette (英語). 10 October 1795. p. 1052.
^ "No. 13922" . The London Gazette (英語). 10 August 1796. p. 781.
^ a b c d e f g h i j k l m Lodge, Edmund , ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. p. 340.
^ Stokes, Winifred (1986). "FITZROY, Lord Charles I (1764-1829), of Wicken, Northants." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年11月25日閲覧 。
^ a b c d e Butler, Alfred T., ed. (1925). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語) (83rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1445.
^ Escott, Margaret (2009). "WOOD, Thomas (1777-1860), of Gwernyfed Park, Three Cocks, Brec. and Littleton Park, nr. Staines, Mdx." . In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年11月25日閲覧 。
^ Salmon, Philip (2009). "KER, David Guardi (?1778-1844), of Portavo and Montalto, co. Down" . In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年11月25日閲覧 。
^ Butler, Alfred T., ed. (1925). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語) (83rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 194.
関連図書
外部リンク