レフ・シャウミャン
レフ(レヴァ[3])・ステパノヴィチ・シャウミャン(ロシア語: Лев (Лева) Степанович Шаумян、1904年4月25日 - 1971年5月24日)、民族名レヴォン(レヴァン[4])・ステパニ・シャフミアン(アルメニア語: Լևոն Ստեփանի Շահումյան)は、ソビエト連邦のジャーナリスト。 生涯1904年4月25日、革命家ステパン・シャウミャンの次男[5]としてロシア帝国チフリス県チフリスに生まれた[2]。後に歴史家となるセルゲイ (hy) は弟[6]。1917年9月からバクーのボリシェヴィキ組織で活動を始め、1918年夏にはバクー・コミューンを防衛する戦いに参加して負傷し、同年9月にコミューンが崩壊するとコミューン成員らとともに逮捕・収監された[2]。父は処刑されたが、自身は兄スレンとともに処刑を逃れ[7]、その後ヨシフ・スターリンに引き取られた[4]。 1919年からボリシェヴィキ党員となり、同年から翌1920年までバクーとチフリスの地下組織で活動[2]。第8回 (ru) および第9回 (ru) 全ロシア・ソビエト大会では組織委員会で働き、第10回および第11回(そして第17回)党大会にも出席している[2]。1922年から翌1923年までスヴェルドロフ共産大学で学び、1924年から1932年までスターリングラード、モスクワ、バクー、ロストフ・ナ・ドヌで活動した[2]。 1932年からは数々の新聞の編集に携わり、1941年から1946年までは『ウラリスキー・ラボーチー』(ru) 編集長を務めた[2]。1948年に高等党学校を卒業[2]。翌1949年から「ソビエツカヤ・エンツィクロペディヤ」出版社 (ru) で働き、1954年から大編集委員会メンバー、1959年から第一副編集長として『ソビエト大百科事典』第2版・第3版および『ソビエト小百科事典』第3版の編集に関わった[2]。科学編集出版会議副議長も務め、共産党史、ソ連史や[2]バクー・コミューン、革命家カモについての著作もある[1]。 脚注
参考文献
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