ルキウス・フリウス・ピルス
ルキウス・フリウス・ピルス(ラテン語: Lucius Furius Philus、生没年不詳)は、紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政務官。紀元前136年に執政官(コンスル)を務めた。スキピオ・サークルの一員ともされる。 出自ピルスはパトリキ(貴族)であるフリウス氏族の出身である。フリウス氏族はエトルリア都市トゥスクルム(en)から移住したとされている[1]。カピトリヌスのファスティの欠損のため父および祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)は不明であるが、紀元前223年の執政官プブリウス・フリウス・ピルスの孫と考えられている。父は紀元前171年にプラエトル(法務官)を務めたルキウス・フリウス・ピルスと推定される[2]。 経歴執政官就任年とウィッリウス法の規定(43歳以上)から、ピルスは179年頃に生まれたと推定される[3]。現存する資料でのピルスに関する最初の記録は、紀元前137年末に、翌年の執政官選挙に立候補して当選したことである[4]。また、遅くとも紀元前139年には法務官を務めたはずである[5]。 紀元前136年の同僚執政官は、プレブス(平民)のセクストゥス・アティリウス・セッラヌスであった[6]。この年、ヒスパニアのヌマンティアと屈辱的な講和条約を締結した、ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスの裁判が行われた。プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオとプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌスが、条約批准に強く反対した。両執政官は、条約批准拒否を明確にするため、マンキヌスをヌマンティアに引き渡すことを元老院に提案した。ピルスの管轄地域はヒスパニア・キテリオルであったため、彼がマンキヌスをヌマンティアに連れていき、ヌマンティアに引き渡すこととなった。マンキヌスは裸で手を縛られ、ヌマンティアの門の前に立たされたが、ヌマンティアは受け取りを拒否した[4][7]。 ウァレリウス・マクシムスはピルスの政敵であるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスとクィントゥス・ポンペイウスのこの件に関する行動に触れている。ピルスが任地に出立しようとした際、両者はピルスが過剰な欲望を持っていると避難した。対するピルスは両者に対して自分に同行するよう命じた[8]。現代の研究者は、この決定を奇妙なものと感じている。おそらくピルスは自身の政敵二人に対し、彼の勝利を見せてやろうと考えたのであろうが、結果としては何も起こらなかった。翌年、後任の執政官クィントゥス・カルプルニウス・ピソにヒスパニア・キテリオルの管轄を委譲した[9] 知的活動ピルスは、スキピオ・アエミリアヌスの友人の一人であり、いわゆる「スキピオ・サークル」に属しており、そのメンバーはギリシア文化の尊敬と穏健な政治改革構想を持っていた[4]。マルクス・トゥッリウス・キケロ、ピルスをこのサークルの他のメンバーとともに、『国家論』の主人公の一人にした[10]。 キケロはティベリウス・センプロニウス・グラックスの時代の弁論家として、ピルスを「非常にラテン語の演説がうまく、他の人よりも教育を受けていた」と評している[11]。 子孫紀元前119年頃に造幣官を務めたマルクス・フリウス・ピルスは、ピルスの息子と思われる[2]。 脚注参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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