ルキウス・アエミリウス・パウッルス (紀元前50年の執政官)
ルキウス・アエミリウス・パウッルスまたはルキウス・アエミリウス・レピドゥス・パウッルス(ラテン語: Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus、生没年不明)は紀元前1世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前50年に執政官(コンスル)を務めた。 出自レピドゥス・パウッルスは古いパトリキ(貴族)であるアエミリウス氏族[2] の出身である。レピドゥス家も紀元前285年のマルクス・アエミリウス・レピドゥス 以来、多くの執政官を輩出してきた[3]。 パウッルスの父は、紀元前78年に執政官を務めたマルクス・アエミリウス・レピドゥスである。祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、曽祖父はマルクスであるが、名前以外は不明である。歴史学者V. ドルマンは、曽祖父マルクスは紀元前189年にマグネシアの戦いにトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)として参加した人物と考えている[4]。一方で、キケロが『第13ピリッピカ』で述べているように[5]、紀元前187年と紀元前175年の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥス が曽祖父と考える歴史学者も多い[6][7][8]。 パウッルスの母はアップレイウス氏族の出身であった[9]。二人にはさらに二人の息子、マルクス・アエミリウス・レピドゥス(第二回三頭政治の一頭)と紀元前83年にスキピオ家に養子に入ったルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス・アエミリアヌスがいた[4]。アエミリアヌスは紀元前77年に若くして死去している[10][11]。 経歴パウッルスが現存資料に登場するのは紀元前63年である。ルキウス・セルギウス・カティリナの反乱の噂が流れ、パウッルスはカティリナを暴力的行為の罪で告訴している[12]。カティリナ本人はローマから脱出し、その後戦死したために、この裁判は行われることがなかった[13]。翌年、パウッルスは造幣官を務め、表にコンコルディア女神、裏に降伏したマケドニア王ペルセウスとその息子2人を刻んだデナリウス銀貨を鋳造している。これはカティリナに対する勝利の記念(コンコルディア神殿で行われた元老院会議で、カティリナの共謀者の処刑が決定されている)と、彼の先祖の功を称えるものであった[14]。 クルスス・ホノルム(名誉のコース)の第一歩であるクァエストル(財務官)には紀元前59年に就任した[15]。マケドニア属州総督ガイウス・オクタウィスス(アウグストゥスの実父)の下で勤務している。このときローマではルキウス・ウェッティスという人物が、ポンペイウス暗殺計画があると触れ回った。共謀者には経験豊富な政治家であるマルクス・カルプルニウス・ビブルス、ルキウス・リキニウス・ルクッルス、ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス、さらにはこのときはまだ若かったガイウス・スクリボニウス・クリオ、マルクス・ユニウス・ブルトゥス、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル、さらにはパウッルスが含まれるとした。しかし誰もこの話を信じず、ウェッティスは牢獄で死亡した[13][16][17]。 紀元前57年、追放されていたキケロのローマ帰還を認める法案が提出されるが、パウッルスも賛成している[18]。紀元前56年には、暴動を組織したとして告発されたプブリウス・セスティウスの裁判に出廷し、被告側証人プブリウス・ウァティニウスを告訴する意向を表明した[19]。その後も順調に出世し、紀元前55年にはアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した[20]。この職権で、先祖のマルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年執政官)が建てたフォルムのバシリカ・アエミリアの再建に着手した[21]。紀元前53年にはプラエトル(法務官)に就任する[22]。 紀元前50年、プレブス(平民)のガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノルと共に、執政官に就任[23]。このときローマでは、ポンペイウスが主導するオプティマテス(門閥派)とカエサル派との対立が激化していた。パウッルスの立場は反カエサルと考えられていたが、執政官当選後にカエサルから1,500タレント という莫大な賄賂を受け取り、中立に転じていた。この金はバシリカ再建に使われた[24]。 翌年に勃発したカエサルとポンペイウスの内戦では、パウッルスが重要な役割を果たすことはなかった。紀元前44年にカエサルが暗殺され、パウッルスは再び表舞台に登場する。ムティノ戦争(マルクス・アントニウス対元老院派)、元老院はパウッルスを含む3名の特使をマッシリアのセクストゥス・ポンペイウスに派遣した[25]。後にパウッルスは、カエサル派の指導者の一人である実兄マルクスを「祖国の敵」として認めることに賛成した。しかし紀元前43年の秋には、実兄マルクス、アントニウス、オクタウィアヌスで第二回三頭政治が結成される。三頭政治側はローマを占領し、敵対者のリストを作成した。アッピアノスは、「最初に死刑リストを発表したのはマルクス・レピドゥスで、その第一番目がパウッルスであった」と書いている[26]。しかしパウッルスはローマを脱出し(実際には兄が秘密裏に支援したと思われる)、アシア属州へと逃げた[27][28]。 その後パウッルスはミレトスに落ち着いた。解放者の内戦(第二回三頭政治体制派対カエサルの暗殺者)が終わると、三頭政治側はローマへの帰還を申し出たが、パウッルスは断った[29]。その後のパウッルスに関する記録はない[28]。 子孫パウッルスにはパウッルス・アエミリウス・レピドゥスと名乗った息子がおり、紀元前34年に補充執政官となっている。その息子二人も執政官を務め、うちルキウス(西暦元年執政官)はアウグストゥスの孫娘と結婚している[30]。 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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