ルイ・ナポレオン (ナポレオン公)
ルイ・ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Louis Napoléon Bonaparte, 1914年1月23日 - 1997年5月3日)は、ボナパルト家の家長で、ナポレオン公。ナポレオン6世(フランス語: Napoléon VI)として知られ、1926年からその死までフランス帝位の請求者であった。 ナポレオン・ボナパルトの曽姪孫(弟のひ孫)にあたる。 生涯ナポレオン公ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルトの唯一の息子(第2子)としてブリュッセルで生まれる[1]。母はベルギー王女クレマンティーヌ(レオポルド2世の三女)である。 1926年に父が死去すると、12歳でボナパルト家の家長となった。 1939年9月3日、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発すると、ルイはフランス軍に志願するため、軍に入隊したい旨をダラディエ首相に手紙で打診したものの、軍への入隊を断られた[1]。仕方なくルイは「ルイ・ブランシャール(フランス語: Louis Blanchard)」という偽名でフランス外人部隊に入隊し、北アフリカの植民地で勤務していた[1]が、翌1940年にフランスが、侵攻してきたドイツとの間で休戦協定に調印すると、ルイがいた外人部隊は1941年に解散した[1]。 外人部隊解散後、ルイはシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍に参加するため、イギリスに向かおうとするがドイツ軍に逮捕される。釈放後も「ルイ・モニエ(フランス語: Louis Monnier)」の偽名を使ってレジスタンス組織「軍事抵抗組織」(ORA)に加わり、レジスタンス運動に参加している[1]。1944年7月、ルイの所属していたORAのシャルル・マルテル旅団に同じく参加していた族弟のジョアシャン・ミュラ7世を戦闘で失い、8月28日には同旅団の一群がドイツ軍の攻撃を受け、ルイ以外のメンバーは全員戦死した[1]。負傷したものの一命を取り留めたルイは、怪我から回復するとフランス軍の山岳師団に志願し、その師団で終戦を迎えた。後にフランス政府からその功績を讃えられ、勲章を授与されている。 家族1949年8月16日にアリックス・ド・フォレスタと結婚し、2男2女を儲けた[1]。上の2人は双子の兄妹である。
1997年にプランジャンで死去した時、ルイは遺言で長男シャルル・ナポレオンを差し置いて孫(シャルル・ナポレオンの子)のジャン・クリストフ・ナポレオンを後継者に指名していた[2]。このため現在、ボナパルト家の家長の座は両者の間で競合状態にある。 出典
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