リラ・キャボット・ペリー
リラ・キャボット・ペリー(Lilla Cabot Perry 、Lillaは愛称、本名はLydia、1848年1月13日 - 1933年2月28日)はアメリカ合衆国の画家である。夫の言語学者、英文学者のトーマス・サージェント・ペリー(Thomas Sergeant Perry:1845-1928)とともに来日し、日本の一般の人々を描いた人物画を残したことでも知られる。 略歴ボストンに生まれた[1]。父親は有名な外科医である[2]。父方のカボット家、母方のローレル家はともに「ボストン・バラモン」と呼ばれる最上のエリート階級の一族だった。家族からはリラと呼ばれそれを画家になってから名乗った。ボストンの上流階級で育ち、母親のサロンにはラルフ・ワルド・エマーソンやルイーザ・メイ・オルコットなどの若い文学者たちが訪れ、リラも彼らと交流した。南北戦争中は奴隷解放主義者の家族は、マサチューセッツ州カントンの農場に移り、負傷兵士や逃亡奴隷の世話に尽力した。 1874年4月にハーバード大学の英文学の教授のトーマス・サージェント・ペリーと結婚した。ペリーは幕末の日本を開国させたマシュー・ペリーの一族(甥の息子)である。トーマスとの間に3人の娘を育てた。末娘のアリスはのちに駐日米国大使ジョセフ・グルーの妻となった。 結婚後10年たった1884年から、本格的に美術教育を受け始め、最初、肖像画家のコリンズ(Alfred Quinton Collins)に学んだ[3]。1885年に父親が死んで遺産を継承し、美術に専念することができる経済的な状態になった。[1]ボストンのカウルズ美術学校の印象派の画家、ブンカー(Dennis Bunker)に学んだ。1887年にペリー家はパリに移住し、リラはアカデミー・コラロッシに入学し、ギュスターヴ=クロード=エティエンヌ・クルトワや ブラン(Joseph Blanc)に学び、パリの美術館で巨匠の作品を学んだ。スペインも旅し、プラド美術館も訪れ巨匠の絵画を模写して修行した。[3]その後、ミュンヘンでフリッツ・フォン・ウーデに学び、パリに戻りアカデミー・ジュリアンでトニ・ロベール=フルーリーにも学んだ。 パリのアンデパンダン展に出展し、サロン・ド・パリへの出展も受理された。その後オランダ、ベルギーを旅し、1891年にボストンに戻った。 1897年に夫が慶應義塾大学に英語教授として招かれたため、来日し、1901年ころまで滞日し、日本人を描いた人物画や日本の風景画を残した。 作品脚注
参考文献
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