リチャード・ルーソン=ゴアリチャード・ルーソン=ゴア閣下(英語: Hon. Richard Leveson-Gower、1726年4月30日 – 1753年10月19日)は、グレートブリテン王国の政治家。1747年から1753年まで庶民院議員を務めた[1][2]。 生涯初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴアと1人目の妻エヴリン(Evelyn、旧姓ピアポント(Pierrepont)、1727年6月26日没、初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントの娘)の四男として、1726年4月30日にトレンサム生まれた[1][3]。1735年から1743年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1744年5月28日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[1]。 第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルが1746年7月に書いた手紙によれば、ルーソン=ゴアは弁護士になりたくなく、軍人になりたかったが、父に反対されたため、怠惰な生活を送るか、外交官になるしかないという[2]。ベッドフォード公爵は外交官になることを「追放の一種」(a kind of banishment)としてみていたが、いずれにせよルーソン=ゴアはイギリス代表としてデン・ハーグに滞在していた第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューの秘書官になった[2]。 1747年イギリス総選挙ではベッドフォード公爵の影響力によりタヴィストック選挙区で当選したが[4]、同時に父の支持を受けてリッチフィールド選挙区で立候補した[5]。リッチフィールドではトーリー党所属だった父が与党に転じたため、ルーソン=ゴアの落選運動がおきたが、2万ポンドを選挙戦に費やした末に278票(得票数1位)で当選した[5]。ルーソン=ゴアはリッチフィールドの代表として議員を務めることを選択した[4]。 同年秋にはサンドウィッチ伯爵とベッドフォード公爵の手配により、オーストリア継承戦争の講和会議が行われていたアーヘンにイギリス代表の秘書官の1人(年収300ポンド)として派遣されることになり、和約締結の報せを本国に届けて1,000ポンドの褒賞を受けた[2]。1749年に南部省政務次官(年収1,000ポンドの官職。このときの南部担当国務大臣はベッドフォード公爵だった)に任命され、1751年6月にベッドフォード公爵とともに辞任した[2]。 1753年にはベッドフォード公爵の推薦により次の総選挙で第3代ブリッジウォーター公爵フランシス・エジャートンの支持を受けてブラックリー選挙区で出馬する予定だったが、総選挙を迎えることなく[2]、同年10月19日に生涯未婚のまま死去した[3]。 出典
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