ラミア (ギリシャ)
ラミア(Λαμία)は、ギリシャの中央ギリシャ地方の主都であり、フティオティダ県の県都である。 町の名称ラミアの由来語源には諸説ある。 ジトゥニオン中世には、ラミアの町はジトゥニオン(Ζητούνιον/Zetounion)と呼ばれ、869年に開かれた第8回キリスト教公会議の中で言及されたのが初めであり、その後変化を経つつも、19世紀初めまでジトゥニ(Ζητούνι/Zitouni)として名称は残った。この名称についてもいくつかの説があり、アラビア語の"zeitun"(オリーヴ)から取られたという説や、スラヴ語の"sitonion"(川の向こうの地)からだという説もある。1204年にラテン帝国がジトゥニオンを攻略すると、この町はジルトゥニオン(Zirtounion)、ジトニオン(Zitonion)、ジルトン(Girton)(フランス人支配時)、エル・シト(El Cito)(カタルーニャ人支配時)という名称で呼ばれるようになった。さらに、オスマン帝国時代にはイズティン(Iztin)とも呼ばれた。 歴史古くは紀元前5千年紀の頃から人間が住んでいたが、ラミアが歴史に登場するのは、紀元前424年に発生した地震の後からである。その頃のラミアは、スパルタの重要な軍事基地であった。その後マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)に征服されたが、大王の死後、アテナイやギリシアの他のポリスは、マケドニア王国の支配に対して反発した。この時マケドニア王国の将軍アンティパトロスは、ラミアの町に逃れた。この紀元前323年から紀元前322年にかけて行われたラミア戦争は、アテナイの将軍レオステネスの死と、20,000人強のマケドニア王国軍のラミア到着によって終結した。その後、特にアエトリア同盟の統治下に入った紀元前3世紀には、ラミアの町は繁栄した。しかし、紀元前190年に、共和政ローマの執政官マニウス・アキリウス・グラブリオがラミアを占領すると、町の繁栄は終わった。1829年にはギリシャ領となり、当時は国境の町となった。 観光
人口推移
著名な出身者
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出典参考文献
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