ラッセル・ブラニアン
ラッセル・オレス・ブラニアン(Russell Oles Branyan , 1975年12月19日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州ワーナーロビンズ出身の元プロ野球選手(内野手)。 苗字の日本語表記はブランヤン、ブラニヤン、ブラニャンなどとされることもある。 経歴1994年、MLBドラフト7巡目でクリーブランド・インディアンスから指名を受け、6月9日に契約した。 1998年9月26日のミネソタ・ツインズ戦に「8番・サード」で先発出場しメジャーデビューを果たした。1998年はこの1試合の出場に終わった。 1999年は11試合に出場し、打率.211(38打数8安打)、1本塁打、6打点という成績を記録した。メジャー初本塁打とメジャー初打点を記録するなど、少なからず収穫のあったシーズンとなった。一方で守備面では、11試合中8試合でサードの守備に就いて守備率.960、1失策という数字を残した。 2000年は、完全にメジャーに定着し、67試合の出場で16本塁打、長打率.544という成績を記録した。12.06打席に1本の割合で本塁打を放った。しかし一方で、ミート力の悪さも眼に見える形で現れ始め、打率は.238だった。2000年以降もメジャーに定着し、コンスタントに試合に出場する。 2002年にシンシナティ・レッズに移籍した。 2004年にミルウォーキー・ブルワーズに移籍し、少ない出場機会ながら毎年10本前後のホームランを放った。 2006年は開幕前にブルワーズから放出され、タンパベイ・デビルレイズとマイナーリーグ契約を結んだ。春季キャンプ中にマイナーへ降格するが直後に怪我人が出たため、メジャーに昇格した。本来三塁手であったがこの年は主に右翼手としてプレーした。8月24日にエバン・ミーク、デイル・セイヤーとの交換トレードでサンディエゴ・パドレスへ移籍した。 2007年7月28日にパドレスから解雇された。8月6日に古巣のクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結ぶが、3Aで1試合に出場したのみで、8月9日にフィラデルフィア・フィリーズへトレードされた。8月14日にはメジャーに復帰し、その試合で決勝2点本塁打を放った。8月28日に戦力外となり8月31日にはセントルイス・カージナルスへトレードされた。シーズン後にはフリーエージェントとなった。 2008年2月20日は古巣のブルワーズとマイナー契約を結び、5月25日にメジャー復帰を果たした。昇格してからの20試合で10本塁打し、大きくチームに貢献したが、その後は急激に失速した。8月にはマイナー落ちしてしまい、シーズン終盤に昇格したものの、規定によりポストシーズンのロースターには入れなかった。12月3日、シアトル・マリナーズと1年契約を結んだ。 2009年は7月まで打率3割台を保ったが、後半は打率1割台と低迷し、ヘルニアにより8月29日以降は不出場となった。しかし自己最多の31本塁打、76打点を記録した。ブラニアンは、「この年で毎試合スタメンで出られるようになったのが本当に嬉しい。」と語っている。 2010年、古巣のインディアンスと1年契約を結んだが[1]、6月26日にマイナー選手2人とのトレードでマリナーズに復帰した。移籍後は打率.215と低迷したものの、57試合の出場で15本塁打を放ち、8月21日のニューヨーク・ヤンキース戦では新ヤンキー・スタジアムの右翼アッパーデッキにホームランを打ち込んだ最初の選手となった。 2011年2月にアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結ぶ。スプリング・トレーニングに招待選手として参加し、22試合の出場で打率.429、5本塁打、OPS1.260の成績を残し開幕メジャー入りを果たす。しかし開幕後は31試合の出場で打率.210、1本塁打、OPS.629と低迷し、5月21日に解雇され、5月26日にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと契約を結んだ。 2012年2月にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ[2]が、8月10日に放出された。 2013年は無所属のままシーズンを終えた。 2014年からメキシカンリーグのティファナ・ブルズでプレーした。8月29日に古巣のクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだ[3]。2015年以降のプレー記録はない。 2015年11月、元妻の住居に就寝中を見計らって忍び込み、物品を盗み出した上に室内空調の温度設定を下げる嫌がらせを行ったとして逮捕されていたことが報じられた[4]。 2020年10月には、交際していた女性に暴力を振るったとして同年9月に逮捕され、さらにストーキング行為と保釈条件違反のため10月に再逮捕されていたことが報じられた[5]。 打撃面での特徴通算本塁打は194本であり、これはメジャーリーグ歴代で359位(※)に過ぎない[6]。しかしブラニアンは15.12打数に1本の割合で本塁打を放っていた[7]。これは通算3000打席以上のメジャーリーグ選手の中で歴代16位(※)の数字であり[7]、マイク・シュミット(15.24打数に1本)やケン・グリフィー・ジュニア(15.56打数に1本)などの野球殿堂入りした強打者を上回る[7]。 また頻繁に三振する打者でもあった。ブラニアンの通算三振率(三振数を打席数で割ったもの)は.329であるが、これは通算3000打席以上の選手で見ると、2位のクリス・デービス(.325※)、3位のロブ・ディアー(.312)、4位のジャロッド・サルタラマッキア(.308※)、5位のマーク・レイノルズ(.308※)らを上回り歴代1位の数字である[8]。通算2000打席に基準を下げても、マイク・ズニーノ(.342※)、クリス・カーター(.333※)に次いでブラニアンは歴代3位に当たる[9]。これら三振率上位の選手のうち、デービス、レイノルズ、カーターはいずれもシーズン200三振以上を喫してリーグの最多三振打者となったことがあり、またディアーはアメリカンリーグのシーズン三振記録を20年以上も保持していた。ブラニアンはシーズンごとの三振数では目立たないものの、実は史上屈指のペースで三振を重ねていたことがわかる。 (※印の数字は2018年シーズン終了時点)。 詳細情報年度別打撃成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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