ラウンドテーブル (競走馬)
ラウンドテーブル(Round Table、1954年 - 1986年)は、アメリカの競走馬・種牡馬。黄金世代と呼ばれた1957年アメリカクラシック世代の1頭でクラシックには勝てなかったが、アメリカ各地を転戦して66戦43勝、芝・ダートを問わず実績を残し、計16度のレコードを記録した。生涯獲得賞金額は174万9869ドルにのぼり、1964年にケルソによって破られるまで世界レコードであった。1958年アメリカ年度代表馬。種牡馬としてもアメリカリーディングサイアーに輝くなど活躍した。馬名は円卓の騎士に由来。 生涯誕生ラウンドテーブルは1954年4月6日、アメリカ合衆国ケンタッキー州のクレイボーンファームで生まれた。生育が悪く体高は成馬で157.5センチメートルにしかならなかった。馬名はアーサー王の円卓の騎士に由来しており、母ナイツドーター(騎士の娘)に因む。なお、後にライバルとなるボールドルーラーとは顔見知りだった。同じ日(の僅か30分後)に同じ牧場の隣の馬房で生まれ、引退後も同じ牧場で過ごした。クレイボーンファームはラウンドテーブルを売却しようとしたが値段を4万ドルに設定したところ買い手がつかず、クレイボーンファームの名義で競走馬となった。 競走馬時代2歳時(1956年)ラウンドテーブルは1956年2月24日に競走馬としてデビューした。デビュー戦は4着に敗れ、4月に2戦目で初勝利を挙げた。ラウンドテーブルはこの年に10戦して5勝という成績を残した。 3歳時(1957年)1957年、1月から2月にかけて連敗したラウンドテーブルはトラビス・M・カーという名の石油成金に売却され、本拠地をケンタッキー州キーンランドからカリフォルニア州サンタアニタへと移した。売却額は14万5000ドルで、種牡馬となった際には権利の25%を3年間クレイボーンファームが保有するという条件が付けられた。売却後2月16日にハイアリーパーク競馬場で行われた一般競走を勝ち、4月に入りベイメドウズステークスとブルーグラスステークスを連勝。続くアメリカ三冠第1戦のケンタッキーダービーでは2番人気に支持されたが3着に敗れた。 ケンタッキーダービーに敗れたラウンドテーブルはプリークネスステークスとベルモントステークスには出走せず、5月末から7月下旬にかけて西部ハリウッドパーク競馬場で行われたレースに出走、初戦で敗れた後5連勝した。その後東部へ移動したが勢いは衰えず、8月31日のアメリカンダービーでケンタッキーダービーを勝ったアイアンリージを下して優勝するなど11月1日にかけて11連勝を達成した。 この時期のラウンドテーブルはプリークネスステークス優勝馬のボールドルーラーとベルモントステークス優勝馬のギャラントマンとともに3歳3強という評価を得ていたが、11月9日のトレントンハンデキャップでは両馬との対決が実現した。レースは122ポンドを背負ったボールドルーラーが優勝し、124ポンドを背負ったギャラントマンが2着、124ポンドを背負ったラウンドテーブルは3着に敗れた。なお、3強が対決したのはこのレースが最後であった。12月に再び西部へ戻ってサンタアニタ競馬場で1勝を挙げ、22戦15勝の成績でこの年のシーズンを終えたラウンドテーブルは芝コースでの活躍が認められ、1957年度の最優秀芝コース馬に選出された。ちなみにこの年の年度代表馬にはボールドルーラーが選ばれた。 4歳時(1958年)1958年、ラウンドテーブルは年明けから5月にかけて7連勝、うち5勝がレコード勝ちという目覚ましい成績を挙げた。その後もアメリカ各地を転戦しダート・芝両方のレースに出走、年間20戦14勝という成績を収め、1958年度の年度代表馬、最優秀ハンデキャップ古馬、最優秀芝コース馬のタイトルを獲得した。さらにこの年の最終戦となったホーソーン金杯を優勝した時点でラウンドテーブルの獲得賞金額は133万6364ドルとなり、ナシュアが記録した128万8565ドルの記録を更新した。 5歳時(1959年)1959年、ラウンドテーブルは生涯獲得賞金額の世界レコードを更新し続けた。2月のワシントンバースデーハンデキャップで右前肢を負傷し16着に敗れた(ちなみにこのレースの優勝馬は日本から遠征していたハクチカラである)が、6月に復帰すると前年と同様にアメリカ各地の競馬場を転戦し芝・ダート両方のレースに出走した。この年のラウンドテーブルの成績は14戦9勝、うち7勝がレコード勝ちであった。 競走馬引退後ラウンドテーブルは1959年のシーズンを最後に競走馬を引退し、種牡馬となってクレイボーンファームに繋養された。前述のように種牡馬となったラウンドテーブルはクレイボーンファームとトラビス・M・カーが持分1:3で共有することになっていたがまもなくカーが死亡したため、クレイボーンファームを中心に結成されたシンジケートが所有することになった。 ラウンドテーブルは安定した種牡馬成績を収め、キングズビショップやアッパーケースが活躍した1972年にアメリカのリーディングサイアーとなるなど、リーディングサイアー10位以内に7回ランクインした。日本へは産駒のボールドリック、ターゴワイス、アーテイアス、デュール、ダムウエイタなどが種牡馬として輸入された。 ラウンドテーブルは1981年を最後に種牡馬を引退し、クレイボーンファームで余生を過ごした。1986年6月13日、老衰により32歳で死亡した。遺体はクレイボーンファームの敷地内に埋葬された。 エピソード
表彰
主な産駒
血統表
脚注
参考文献
外部リンク |