ライアン郡 (アイオワ州)
ライアン郡(英: Lyon County)は、アメリカ合衆国アイオワ州の北西隅に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は11,581人であり、2000年の11,763人から1.5%減少した[1]。郡庁所在地はロックラピッズ市(人口2,549人[2])であり、同郡で人口最大の都市でもある。 ライアン郡は、米墨戦争と南北戦争に従軍したナサニエル・ライアン准将に因んで名付けられた。ライアンは1861年8月10日に、ミズーリ州で起こったウィルソンズ・クリークの戦いで戦死した。郡名は当初バンコーム郡だったが、1862年9月11日に州議会が改名した。 歴史ライアン郡となった地域は、1851年7月23日に調印された条約によってスー族インディアンが連邦政府に割譲したものだった。郡の領域は1851年1月15日に設定され、当座の管理のためにウッドベリー郡(当時はワーコー郡)に付設された。1872年1月1日に正式にウッドベリー郡から離れた。 ライアン郡に最初に住んだ白人はダニエル・マクラーレンであり、アンクル・ダンと呼ばれた。短期間スー川の近くに住み、狩猟や罠猟を行っていた。マクラーレンはさらに西の土地に入るために、開拓初期の段階で郡を後にした。2人目の開拓者はオールド・トムと呼ばれ、短期間現在のロックラピッズ近くに住んだ猟師だった。オールド・トムは罠を設定しているときにスー族インディアンに殺された。 1862年から1863年、東海岸からきた狩猟の旅の集団が郡内で暫く時を過ごした。彼らはロイ・マグレガー、ジョージ・クラーク、トマス・ロックハートだった。冬の間、ロックハートとマグレガーはリトルロック・クリーク沿いでヘラジカを狩っていて、スー族インディアンの集団に遭遇した。ロックハートは弓矢で殺されたが、マグレガーは逃れることができ、クラークの所に戻った。この2人は1863年3月まで狩りを続けた。春の洪水の季節にクラークが溺死し、マグレガーは東部に戻ることにした。 ライアン郡で最初の恒久的開拓地は1866年7月にルイス・P・ハイドによって設立された。1869年の郡人口は100人に達していた。全てが移民と入植だった。郡内で生まれた最初の白人の子供は、1871年5月28日生まれのオデナ・リーだった。1871年10月10日、最初の選挙が行われ、97人が投票した。 地理アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は587.63平方マイル (1,522.0 km2)であり、このうち陸地587.50平方マイル (1,521.6 km2)、水域は0.13平方マイル (0.34 km2)で水域率は0.02%である[3]。 郡内にはギッチー・マニトー州立保存地があり、郡内では最古の露出岩盤がある。郡北西部にはパホヤ湖がある。面積が28ヘクタールを超える人造湖である。 主要高規格道路
隣接する郡
人口動態
2010年国勢調査基礎データ 2000年国勢調査
都市と町
郡区
脚注
参考文献
外部リンク |