ヨハン・エルンスト2世 (ザクセン=ヴァイマル公)
ヨハン・エルンスト2世(ドイツ語:Johann Ernst II., 1627年9月11日 - 1683年5月15日)は、ザクセン=ヴァイマル公(在位:1662年 - 1683年)。 生涯ヨハン・エルンスト2世はザクセン=ヴァイマル公ヴィルヘルムと、アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク1世の娘エレオノーレ・ドロテアの間の息子である。三十年戦争の間、ヨハン・エルンスト2世はあまり教育を受けられなかった。後にヨハン・エルンストはイェーナ大学で学び、イタリアとフランスにグランドツアーに出かけた。 1656年8月14日にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公ヨハン・クリスティアンの娘クリスティーネ・エリーザベトと結婚した。家族を養うため、数人の子供が生まれた後にオルディスレーベンからの収入を受けることとなった。父ヴィルヘルムの統治にも参画し、ヨハン・エルンストは公領内の狩猟と林業を監督する役目を担った。 父の死後、ヨハン・エルンストは公位を継承した。父の死から4週間後、ヨハン・エルンスト2世は、領地の使用と統治について自分と弟たちと話し合った。いくつかの特権を持つヨハン・エルンストが長(Directorate)となり、兄弟は共同で公領の統治を行った。とはいえ,兄弟たちは割り当てられた領地において幅広い権利を享受し、それぞれ居所を持っていた[1]。ヨハン・エルンストはヴァイマルを、アドルフ・ヴィルヘルムはザクセン=アイゼナハのアイゼナハとクレムダを、ヨハン・ゲオルク1世はザクセン=アイゼナハのうちのクロイツブルクとクライエンベルクを、そしてベルンハルトはザクセン=イェーナを受け取った。また、1672年にザクセン=アルテンブルク家が絶えた後、相続をめぐってザクセン=ゴータ家と争い、ヨハン・エルンストはザクセン=ヴァイマル家に対しザクセン=アルテンブルクの約4分の1の領地を取り込むことができた。その後、ヨハン・エルンストは弟ベルンハルトおよびヨハン・ゲオルクと話し合い、ザクセン=ヴァイマル公領はザクセン=ヴァイマル、ザクセン=イェーナおよびザクセン=アイゼナハの各公領に分割された[2]。1675年以降、ヨハン・エルンストはエルネスティン家の家長となった。 父ヴィルヘルムが文化面で多大な貢献をしたのに対し(実りを結ぶ会を参照)、ヨハン エルンスト2世は狩猟にのみ情熱を注ぎ、国政の大部分を首相に任せた。1680年に落馬した後、片足が麻痺し、その3年後に心不全で死去した。ヨハン エルンストはヴァイマルの墓地に埋葬された。 子女ヨハン・エルンスト2世はクリスティーネ・エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルクとの間に以下の子女をもうけた。
脚注
参考文献
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