ヨハン・ゲオルク1世 (アンハルト=デッサウ侯)
ヨハン・ゲオルク1世(Johann Georg I. von Anhalt-Dessau, 1567年5月9日 - 1618年5月24日)は、アンハルト侯(在位:1586年 - 1603年)、後にアンハルト=デッサウ侯(在位:1603年 - 1618年)。 生涯アンハルト侯ヨアヒム・エルンストとその最初の妻アグネス・フォン・バルビの間の長男として生まれた。1586年に父が死ぬと、彼は長子相続を定めていない家憲に従って、同母弟のクリスティアン1世及び5人の異母弟達(ベルンハルト、アウグスト、ルドルフ、ヨハン・エルンスト、ルートヴィヒ1世)と共にアンハルト侯領を共同で相続した。大勢の異母弟達が未成年のため、彼らが成人するまではヨハン・ゲオルクが侯領の統治を単独で行った。 1603年、ヨハン・ゲオルクと存命中の弟4人の間で分割相続に関する協定が結ばれ(ベルンハルトは1596年、ヨハン・エルンストは1601年に死去)、ヨハン・ゲオルクは長子の相続領とされたアンハルト=デッサウ侯領を確保した。ヨハン・ゲオルクは1606年まで弟達の創設した諸侯領全体を統治したが、それ以後は弟達は独立した。ヨハン・ゲオルクはデッサウの統治者として領内の宗教改革を熱心に進め、カトリック教会の伝統文化と典礼の根絶を強圧的な姿勢で続けた。妹のザクセン=ヴァイマル公爵夫人ドロテア・マリアの葬儀の最中だった1617年8月24日、ヨハン・ゲオルクは末弟のアンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ1世と共にドイツ最初の文芸サークル「実りを結ぶ会」を結成した。 ヨハン・ゲオルクは領民に非常に好かれた統治者であり、博学で、特に占星術と錬金術に通じていた。彼の書庫には3000冊の書物が所蔵されていた。 結婚と子女1588年2月22日、マンスフェルト=アルンシュタイン伯ヨハン・アルブレヒト6世の娘ドロテア(1561年 - 1594年)と結婚し、間に5人の子女をもうけた。
1595年2月21日、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールの娘ドロテア(1581年 - 1631年)と再婚し、間に11人の子女をもうけた。
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