ヨハン・ヴィルヘルムの長姉マリー・エレオノーレとプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの娘のプロイセン公女アンナはルター派であり、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントと結婚していた。一方、ヨハン・ヴィルヘルムの次姉アンナはカトリック信徒であり、プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒと結婚していた。結果としてブランデンブルク選帝侯領とプファルツ=ノイブルク公領の間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争(三十年戦争の前哨戦の一つとされる)が勃発したが、1614年のクサンテン条約 (en) で妥協が成立し、ブランデンブルクが連合公国内のプロテスタント領邦(クレーフェ、マルク、ラーフェンスベルク)を、プファルツ=ノイブルクがカトリック領邦(ユーリヒとベルク)を相続した。不運なことに、ヴィルヘルム5世の異名「富裕公(Wilhelm der Reiche)」が示す連合公国の国土の豊かさは、継承争いに伴う戦乱のために破壊された。