アルフレ・ドルセ (英語版 ) による肖像画、1847年。
初代クランリカード侯爵 ユリック・ジョン・ド・バーグ (英語 : Ulick de Burgh, 1st Marquess of Clanricarde KP PC 、1802年 12月20日 – 1874年 4月10日 )は、イギリス の貴族、政治家、外交官。
生涯
第13代クランリカード伯爵ジョン・トマス・ド・バーグ (英語版 ) とエリザベス・バーク(Elizabeth Burke 、1764年頃 – 1854年3月26日、初代準男爵サー・トマス・バーク の息子として、1802年12月20日にハンプシャー のベルモント(Belmont )で生まれた[ 1] 。1808年7月27日に父が死去すると、クランリカード伯爵 位を継承した[ 1] 。1820年10月16日にオックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学した[ 2] 。
1825年4月に首相ジョージ・カニング の娘と結婚[ 1] 、その影響力により同年11月26日にアイルランド貴族 であるクランリカード侯爵 に[ 3] 、1826年12月13日に連合王国貴族 であるケント におけるサマーヒルのサマーヒル男爵 に叙された[ 1] [ 4] (ただし、ド・バーグ家はこの叙爵から2世紀前にサマーヒルの地所を手放している[ 1] )。同1826年から1827年にカニングが死去するまで外務省政務次官 (英語版 ) を務めた[ 1] [ 5] 。
カニングの死後、カニング派トーリー党 からホイッグ党 に転じ[ 1] 、グレイ伯爵 内閣期の1830年から1834年まで国王親衛隊隊長 を務め[ 1] 、1830年12月1日に枢密顧問官 に任命され[ 1] [ 6] 、1831年10月19日に聖パトリック勲章 を授与された[ 1] [ 7] 。1831年10月7日にゴールウェイ統監 に任命され、以降1874年に死去するまで務めた[ 8] 。1834年、第2代カニンガム侯爵フランシス・カニンガム が郵政長官 (英語版 ) に任命されたため、クランリカード侯爵は内閣に軽んじられたと感じて国王親衛隊隊長を辞任した[ 5] 。
1838年から1841年まで在ロシアイギリス特命全権大使 (英語版 ) を務めた後、第1次ラッセル内閣 (英語版 ) 期の1846年から1852年まで郵政長官を務めた[ 1] 。第1次ラッセル内閣期におけるジャガイモ飢饉 の対処では救済措置を実施を強く主張した[ 5] 。
続くアバディーン伯爵内閣 (英語版 ) に入閣せず、1854年のクリミア戦争 をめぐる弁論では反ロシア論者として参戦を主張した[ 5] 。第1次パーマストン子爵内閣 (英語版 ) にも最初は入閣しなかったが、1857年末に首相の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル から入閣を打診され[ 5] 、翌年2月に3週間ほど王璽尚書 を務めた[ 1] 。
1826年から1874年まで貴族院 に議席を有し、自由主義者(ホイッグ党員)として頻繁に演説した[ 5] 。
1874年4月10日、メイフェア のストラットン・ストリート (英語版 ) 17号で死去、次男ヒューバート・ジョージ (英語版 ) が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1825年4月4日、ハリエット・カニング(Harriet Canning 、1804年4月13日 – 1876年1月8日、首相ジョージ・カニング と初代カニング女子爵ジョーン・カニング の娘)と結婚[ 1] 、2男5女をもうけた[ 9] 。
エリザベス・ジョアンナ(1826年2月22日 – 1854年2月26日) - 1845年7月17日、第4代ハーウッド伯爵ヘンリー・ラッセルズ (英語版 ) と結婚、子供あり
ユリック・カニング (英語版 ) (1827年7月12日 – 1867年8月16日) - 庶民院議員
エミリー・シャーロット (英語版 ) (1828年10月19日 – 1912年10月10日) - 1853年7月20日、第9代コーク伯爵リチャード・ボイル と結婚、子供あり
キャサリン(1829年11月17日[ 10] – 1895年4月9日) - 1850年8月8日、ジョン・ウェイランド(John Weyland 、1902年4月5日没)と結婚、子供あり
マーガレット・アン(1831年5月20日[ 10] – 1888年3月31日) - 1856年3月6日、初代アレンデイル男爵ウェントワース・ボーモント (英語版 ) と結婚、子供あり
ヒューバート・ジョージ (英語版 ) (1832年11月10日 – 1916年4月12日) - 第2代クランリカード侯爵
ハリエット・オーガスタ(1834年2月15日[ 10] – 1901年1月18日) - 1859年3月3日、トマス・フレデリック・チャールズ・ヴァーノン=ウェントワース(Thomas Frederick Charles Vernon-Wentworth 、1902年1月1日没)と結婚、子供あり
多くの愛人を抱え、爵位を継承した息子ヒューバートは1876年に「庶子の数はどうも無限のようだった」(an apparently unlimited number of illegitimate children )とこぼした[ 5] 。1855年にはウィリアム・ヘンリー・ハンドコック(William Henry Handcock )の妻キャサリン・ジョセフィン(Catherine Josephine )との間で不倫関係を持ち、庶子ジョン・ドラクール(John Delacour 、1841年 – ?)をもうけたとしてハンドコック家の遺産継承裁判に巻き込まれたが、オックスフォード英国人名事典 はドラクールが生まれた時期、クランリカード侯爵が(在ロシア大使として)サンクトペテルブルク に滞在していたため、ドラクールがクランリカード侯爵の実子である可能性は低いとしている[ 5] 。
出典
^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 237–238.
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 193.
^ "No. 18182" . The London Gazette (英語). 8 October 1825. pp. 1816–1817.
^ "No. 18259" . The London Gazette (英語). 17 June 1826. p. 1478.
^ a b c d e f g h McDowell, R. B.; Matthew, H. C. G. (8 October 2009) [2004]. "Burgh, Ulick John de, first marquess of Clanricarde". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/37245 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ "No. 18753" . The London Gazette (英語). 3 December 1830. p. 2537.
^ "No. 18863" . The London Gazette (英語). 21 October 1831. p. 2167.
^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lords-Lieutenants (Ireland) 1831-" . Institute of Historical Research (英語). 2018年7月23日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年10月21日閲覧 。
^ "Clanricarde, Marquess of (I, 1825 - 1916)" . Cracroft's Peerage (英語). 2020年10月21日閲覧 。
^ a b c Lodge, Edmund , ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. pp. 122–123.
外部リンク