ヤンシー・ブラゾバン
ヤンシー・ホセ・ブラゾバン(Yhency José Brazobán , 1980年6月11日 - )は、ドミニカ共和国・サントドミンゴ出身の元プロ野球選手(投手)。 発音表記ではイェンシー・ブラソバン(Yen-see BRAH-so-bahn)がより近く、ゾではなくソと濁らない[1]。 経歴プロ入りとヤンキース傘下時代1997年7月10日に、外野手としてニューヨーク・ヤンキースと契約を結んだ。 ドジャース時代2003年12月13日にケビン・ブラウンとのトレードでジェフ・ウィーバーらとともにロサンゼルス・ドジャースへ移籍。 2004年はAA級ジャクソンビルで開幕を迎え、AAA級ラスベガスを経て8月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャーデビュー。31試合に登板し6勝2敗、防御率2.48、WHIP1.22の成績を残し、ポストシーズンのロースターにも登録された。 2005年はトミー・ジョン手術を受けたエリック・ガニエに代わりクローザーも務めたが、74試合の登板で4勝10敗21セーブ、防御率5.33、WHIP1.40の成績を喫する。 2006年4月14日に肘の靱帯損傷が発覚し、トミー・ジョン手術を受ける。 2007年5月23日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で復帰を果たすが、4試合に登板後、右肩痛が発覚し内視鏡手術を受け、シーズンを終える。 2008年は5月にメジャーで2試合に登板するも、AA級ジャクソンビルとAAA級ラスベガスでシーズンの大半を過ごす。シーズン終了後にノンテンダーFAとなりドジャースとマイナー契約を結ぶ。 2009年はスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、3月19日に解雇される。 メキシカンリーグ時代2010年は、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのミナティトラン・オイラーズとメキシコシティ・レッドデビルズでプレーした。 メッツ傘下時代2010年8月15日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。傘下AAAのバッファロー・バイソンズで10試合に登板した。 レンジャーズ傘下時代2010年12月16日にはテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ。 2011年6月2日に解雇された。 ダイヤモンドバックス時代2011年、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。29日のクリーブランド・インディアンス戦で3年ぶりにメジャーに復帰。6試合に登板したが、7月20日に40人枠から外れマイナーに降格した。 ソフトバンク時代2011年7月30日に、福岡ソフトバンクホークスへ入団した[2]。 同年のシーズン終了までの在籍となったが、リリーフのみ15試合の登板で防御率0.56の好成績を残し、チームの2年連続リーグ優勝と8年ぶりの日本一に貢献した(なおクライマックスシリーズ、日本シリーズでは登板機会はなかった)。 メキシカンリーグ復帰2012年は、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのラグナ・カウボーイズとベラクルス・レッドイーグルスでプレーした。 2013年は、所属球団が無かった。 独立リーグ時代2014年は、アトランティック・リーグのブリッジポート・ブルーフィッシュに所属するも1試合の登板で退団した。その後アメリカン・アソシエーションのグランドプレーリー・エアーホッグスに入団するも5試合の出場で退団した。 選手としての特徴メジャーでの通算与四球率4.39と制球力には欠けるものの、かつては荒れ球ながら最速99mph(約159km/h)の速球とスライダーを武器としていた[3][4][5]。故障以後は平均球速93mph(約150km/h)の速球(フォーシーム、ツーシーム)とスライダー、チェンジアップで投球を組み立てるようになった[6]。 福岡ソフトバンクホークス入団時の球団発表では、「平均150km/hの球威あるストレートに打者の手元で鋭く曲がるキレの良いスライダーとのコンビネーションで打者を打ち取るリリーフ経験豊富なパワーピッチャー[2]。」とコメントされた。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia