ヤングリヤングリ は、クルカ地方シュムル氏女真族。
満洲国マンジュ・グルン樹立まもない頃からヌルハチ (清太祖) に従い、40餘年に亘って大小100以上の戦役で武勲を揚げ、[9]大清国ダイチン・グルン最初期における勢力拡大に貢献した。 太宗ホン・タイジの李氏朝鮮侵攻において陣没し、王爵に追封されて太祖・太宗両朝における唯一[10]の異姓王となった。後に高宗乾隆帝 (弘暦) からは、グヮルギャ氏フュンドン、ニョフル氏エイドゥと併せて「開國勳臣之冠」と評された。[11](フュンドンとエイドゥはともにヌルハチの開国五大臣アムバンの一人。) 略歴クルカ部 (野人女直の一種) の酋長であった父ランジュが早くからヌルハチを支持し、その厚遇を得ていた縁故で、ヤングリは若くしてヌルハチの侍衛に抜擢された。しかしその後、父ランジュがクルカ部内の者に殺害され、一族は叛徒によって包囲された。ヤングリの母は幼い三弟ナムタイを背負い、刀を佩びると、矢を放って叛徒と戦いながら包囲を脱出し、一族を引き連れてヌルハチの許に帰順 (移徙) した。[12] 幾許もなく、のこったクルカ部が挙ってヌルハチに帰順した。[12]ヤングリはその時、父の仇をその中にみつけて手刃し、[12]その耳と鼻を削いで喰ったという。[13]ヤングリ14歳の年であった。[12] ヌルハチ時代ヤングリの異彩に驚いたヌルハチは日増に信任を深め、娘?を降嫁してエフと呼び、[12]八旗制定に続いて後金国アイシン・グルンを樹立すると、ヤングリは満洲正黄旗に編入された。[9] ヤングリは鴨緑江ヤル・ウラ駐屯を命じられ、鼠一匹入れぬ厳格な警備で一人の侵犯者も現れなかった。それ以降、ヤングリの戦功は多数に及ぶ。 遼陽攻略における戦功目覚ましいヤングリに、ヌルハチは八王ベイレに次ぐ地位と一等総兵官の職位を与え、左翼兵の統轄を命じたが、またヤングリが交戦中に負った創痍を考え、従軍の責務を解いた。 ホン・タイジ時代ホンタイジの治下ではおもに明朝討伐と朝鮮侵攻で再び力を奮った。 天聡8年16345月壬寅17日には、功勲により左翼超品一等公 (宗室貝勒ベイレにつぐ位、外臣の最高位) に叙爵され、さらに「世襲不替」[注 2]とされた。[6] 天聡9年1635正月、功臣の徭役免除が決定され、併せてヤングリは牛彔ニル二組の専管を命じられた。[14] 天聡10年16362月13日、ホン・タイジは臣下の冠飾を制定し (冠冕の上の金の装飾で階位を区別する)、ヤングリと宗室篇古フィヤングには「嵌東珠金頂」[注 3]が賜与された。[15] 死歿崇徳2年1637正月丁未7日、李氏朝鮮の増援部隊を撃つ為、ホン・タイジの命を受けたヤングリは豫親王・多鐸ドドとともに兵を率いて迎撃に向かった。悪天候の中ようやく敵陣営をみつけ、襲撃準備の為にドドの許へ向かったが、岩窟に伏せていた敵敗残兵に鳥鎗 (火縄銃の一種) で撃たれ、重傷を負ったヤングリはその場で陣没。[16]66歳の生涯を閉じた。[12] 敵兵は夜闇に紛れて逃げ、翌戊申8日、ドドが襲撃を開始した時には蛻の殻であった。ヤングリの遺体が舁ぎこまれると、ホン・タイジは哭き通した。そして親らその死を弔い、棺には皇帝の御服である黒貂の皮で作られた衣裳一揃え (裘套帽鞾) が入れられた。[17] 同年11月癸未19日、生前の武勲を讃え、武勲王に追封。祭祀が行われ、碑が建てられた。[18]碑文に曰く、 寬溫仁聖皇帝、制して曰く「咨あゝ、爾なむぢ超品一等公額駙・楊古利、國の爲に宣力し、克よく懋勳を建つ。爰ここに古制に倣ひ、爾を追封して武勳王と爲し、遣官して諭祭し、墓道に立碑し以て垂不朽うけつがむ」と。 参加した主な戦役
族譜下系図の人名および続柄は基本的に『八旗滿洲氏族通譜』巻6「庫爾喀地方舒穆禄氏」(漢・満) に拠り、その他の文献に拠った処のみ脚註を附す。 尚、中国の史料に現れる傍系の一族については注意が必要で、譬えば「弟」と書かれていても実際は「弟世代」の意味であり、「実弟」を指す場合には「親弟」または兄弟中の出生順序を冠して「三弟」などと表記される。本系図においてもそれに従い、「親-」または出生順序がつかない場合は「父不詳」とした。 父祖
兄弟
妻妾
子女
昭槤の外祖?ヌルハチ次子ダイシャンの昆孫にあたる昭槤は、自身の著書『嘯亭雜錄』[29]において 余外祖舒穆祿武勲王諱楊古利…… と記している。『愛新覺羅宗譜』[30]に拠れば、昭槤の母は「舒穆祿氏將軍綽爾多」の娘で、『八旗滿洲氏族通譜』[31]に「西安將軍」を務めた「綽爾多coldo」という同名の人物がみえ、続柄は「楊古利額駙yangguri efu之族侄[注 5]」にあたる「伊爾德ildei」なる人物の曾孫とある。ただし上述の通り、傍系は「親-」とつかぬ限りあてにならない為、ヤングリの実甥である可能性は低い。
徐元夢の祖先?同じく『嘯亭雜錄』では、「徐元夢sioi yuwan meng」をヤングリの後裔とする。徐元夢は『八旗滿洲氏族通譜』の編纂などに携わった雍正朝の重鎮の一人で、ヤングリと同じくシュムルšumuru氏だが、出身地はヤングリとは異なる「渾春huncun杜麻湖村dumahū gašan地方」[32]で、『八旗滿洲氏族通譜』の記載からはヤングリとの精確な続柄はみいだせない。名前の満文読みからもそれが漢名であることがわかるが、昭槤に拠れば、徐元夢が生まれる前、徐元夢の父が夢で老翁のお告げをきき、徐姓を名のらせたのだという。[33] 脚註典拠
註釈
文献史書
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