ミツハタ
ミツハタは日本のサラブレッド競走馬[1]。1952年の天皇賞(春)優勝馬である。 来歴なお、36戦すべて、芝コースでの出走である。 1950年10月22日、未出未受(東京競馬場、以下 東京)でデビューし1着。2戦目の11月5日の10万円下(東京)も勝った。12月10日に行われた朝日杯3歳ステークス(中山競馬場、以下 中山)では4番人気に推されたが、勝ったトキノミノルに8馬身の差をつけられ4着に終わった。 1951年4月7日のオープン(中山)を勝ち3勝目。矢野幸夫の鞍上では2戦目となった4月29日の4歳特別(東京)では、2分05秒0のレコード勝ちを収めた。この一戦以後しばらく、矢野が鞍上を務めることになる。 5月13日の皐月賞では3番人気に支持されたが、トキノミノルが勝ち、当馬はイツセイにハナ差およばず3着となった。 続く6月3日の東京優駿では5番人気となったが、皐月賞同様に、トキノミノル、イツセイに次いで3着。しかしイツセイには5馬身差をつけられた。したがってこの時点では、当馬はトキノミノルの脇役にすぎなかった。 ところが6月20日、トキノミノルが破傷風で急死したことで、その後の同世代の勢力図は変わっていく。 秋シーズンは西下せず、関東でのレースに専念した当馬は、9月16日の特ハン(東京)を勝ち、連闘となった9月23日、菊花賞を目指すイツセイと毎日王冠(東京、当時2500m)で対戦。イツセイに1馬身3/4をつけ、2分36秒2のレコードをマークし、初の重賞勝ちを収めた。続く10月6日のオープン(中山)も勝って3連勝。 だが10月14日のカブトヤマ記念(中山)では、西下直前のイツセイと対戦したが、5馬身差の2着に終わった。 その後、11月4日の特ハン(東京)を勝利。11月25日のセントライト記念(東京、当時2400m)ではイツセイに続き2番人気となったが、今度はイツセイに3馬身の差をつけて勝った。 その後、12月9日の中山特別(中山、2400m)において、2分31秒3のレコード勝ちを収めた。 1952年同年に矢野が調教師へと転身したため、主戦は渡辺正人に替わった。また、管理調教師も東原玉造から矢野へと替わった。 3月15日のオープン(東京)から始動。67キロの負担重量を背負いながらも勝った。続く3月21日の東京特別(東京)も勝利した。 その後、天皇賞(春)を目指し西下。5月3日の天皇賞(京都競馬場、3200m)では1番人気に支持された。天皇賞では、前年の菊花賞でイツセイを3着に沈めて勝った2番人気のトラツクオーの粘りにてこずり、最後は頭差となったが、3分23秒1のレコードタイムで制した。 その後、5月18日の東京杯(現在の東京新聞杯、東京。当時2400m)では2分29秒2のレコードタイムをマークしてイツセイを下し、5月31日のオープン(中山)では、69キロを背負いながらも勝った。 続く6月8日の中山ステークス(中山)ではイツセイの2着に終わったが、6月22日の春の目黒記念(東京、2500m)では、73キロの斤量を背負いながらも、2分35秒0のレコードタイムをマークし、2着のトキツオーに3馬身半の差をつけて勝利。一方、イツセイは3着に終わった。しかし、このレースが当馬にとって最後の勝利となった。 その後、秋は5戦するも、70キロの斤量を背負うレースが3つもあったこともあり精彩を欠き、2着2回が最高の着順だった。結局、11月22日のオープン(東京)の2着が最後のレースとなった。 エピソード
競走成績
主な産駒血統表
脚注参考資料外部リンク |
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