マービン・ハグラー
マーベラス・マービン・ハグラー(Marvelous Marvin Hagler、1954年5月23日 - 2021年3月13日(死去報道日)[1])は、アメリカ合衆国のプロボクサー。元WBA・WBC・IBF世界ミドル級統一王者。 サウスポーのオールラウンド・ファイター(サウスポースタイルだが元々右利きで右強打が武器だったので右構えにスイッチすることも多かった)で、あらゆるテクニックと強打、試合運びの巧さ、強靭なメンタルを備え、「ミスター・パーフェクト」と呼ばれた。 人物ニュージャージー州ニューアーク生まれ、マサチューセッツ州出身。家族は夫人と5人の子供。ニックネームは「マーベラス」(驚異的)。 スキンヘッドと彫像のように鍛え上げた褐色の身体が特徴。ミドル級としては長身とは言えなかったがパンチ力、強固なガード、タフネス(打たれ強さ)、両利きのフォームから動ける完璧なテクニック、ハングリー精神を兼ね備える。同時代に活躍したシュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランのような派手な言動は好まず、現役時代は酒や煙草はもちろん、菓子やコーヒーすら口にしない修行僧のような生活を送った。 専門誌のパウンド・フォー・パウンドのランキングでは常に上位に名前が挙がり、その実力はミドル級史上でも屈指と評される。レナード、ハーンズ、デュランとともに1980年代の「中量級黄金時代」を築き上げた。 経歴プロデビュー前貧しい母子家庭に生まれ、学校は9歳で退学。ヘビー級王者フロイド・パターソンに憧れてボクサーを志す。アマチュアのリングで活躍し、1973年にAAU165ポンドの国内王者となった。 プロボクサー時代1973年5月18日、2回KOを収めプロデビュー。 順調に白星を重ねるが、その強さに王者が対戦を忌避し、「無冠の帝王」の称号を与えられる。 1974年11月26日、レイ・シールズに10回引き分けに終わった。 1976年1月13日、ボビー・ワッツに10回判定負けでプロ初黒星を喫した。 1976年3月9日、ウィリー・モンローに判定負け。しかしシールズ、ワッツ、モンローとは後に再戦しKOで雪辱。 1979年11月30日、WBA・WBC世界ミドル級王者ビト・アンツォフェルモと対戦。ハグラー圧倒的有利の下馬評だったが、王者のインファイトに苦しみ引き分けに終わる。 1980年9月27日、WBA・WBC世界ミドル級王者アラン・ミンター(イギリス)に3回1分45秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 1981年1月17日、フルヘンシオ・オベルメヒアスと対戦し8回20秒KO勝ちを収め初防衛に成功した。 1981年6月13日、ビト・アンツォフェルモと1年7ヶ月ぶりに対戦し4回終了時棄権によるTKO勝ちを収め2度目の防衛に成功した。 1981年10月3日、ムスタファ・ハムショと対戦し11回2分9秒KO勝ちを収め3度目の防衛に成功した。 1982年3月7日、ウィリアム・リーと対戦し初回1分7秒TKO勝ちを収め4度目の防衛に成功した。 1982年10月31日、フルヘンシオ・オベルメヒアスと1年9ヶ月ぶりに対戦し5回2分35秒KO勝ちを収め5度目の防衛に成功した。 1983年2月11日、トニー・シブソンと対戦し6回2分40秒TKO勝ちを収め6度目の防衛に成功した。 1983年5月27日、ウィルフード・サイピオンとIBF世界ミドル級王座決定戦も兼ねて対戦し4回2分47秒KO勝ちを収めWBA・WBC王座は7度目の防衛、IBF王座獲得に成功した。その後ロベルト・デュラン、ファン・ドミンゴ・ロルダン、ムスタファ・ハムショ(WBA,WBC,IBF 3団体の世界ランキング1位、3度目の防衛戦の相手と再戦)、トーマス・ハーンズ、ジョン・ムガビ(当時プロ戦績26戦26勝無敗26連続KO)と最強の挑戦者相手に12連続防衛(11KO)。 1987年4月6日、シュガー・レイ・レナードに12回1-2(115-113、110-118、113-115)の判定負けを喫し13度目の防衛に失敗し王座から陥落した試合を最後に現役を引退した。 引退後1993年、『国際ボクシング名誉の殿堂』および『世界ボクシング殿堂』入り。 ロイター通信が2021年3月13日、ニューハンプシャー州の自宅で死去したことを報道。66歳没[1]。 戦績
エピソード
脚注
関連項目
外部リンク
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