デイム ・マーゴ・フォンテイン (Dame Margot Fonteyn de Arias DBE , 1919年 5月18日 - 1991年 2月21日 )は、イギリス のバレエダンサー 。本名はマーガレット・イヴリン “ペギー”・ホッカム(Margaret Evelyn "Peggy" Hookham)。芸名のフォンテインは、母方の祖父の姓 Fontes のもじりである。
人物
アイルランド 系である母親がブラジル人 とのハーフだったので、アングロ・サクソン系 らしからぬ黒髪黒目のエキゾチックな容貌が特徴的だった。幼少時からバレエを習い始め、父親の赴任先の上海 でもロシア人舞踊師から手ほどきを受けていた。帰国後はサドラーズ・ウェルズ・バレエ学校 で学ぶ。入学当初から学校長兼ヴィック・ウェルズ・バレエ(後のロイヤル・バレエ団 )芸術監督のニネット・ド・ヴァロア に見出され、徹底的に鍛えなおされたという。
1934年 、舞台デビューした。翌年、バレエ・リュス 出身のプリマ、アリシア・マルコワ 退団のあとをうけてプリマ・バレリーナとなった。1946年、全米ツアー公演で踊った『眠れる森の美女 』オーロラ姫が当たり役となり、注目を浴びる。その後もロイヤル・バレエで活躍する他、1954年から王立舞踏学院の院長を務めた。1956年にデイム の称号を与えられた。代表作は『ジゼル 』『眠れる森の美女』『白鳥の湖 』など。映画『小さなバレリーナ』(1947年 )にも出演した。
1963年 、引退がささやかれていた時期にソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフ と『ジゼル』で共演する。これが評判となり、以降ヌレエフとの間に10年以上に及ぶパートナーシップで再びバレエ界に名をとどろかせた。特に2人の『眠れる森の美女』、『ロメオとジュリエット 』は有名で、後者は映像化された。1955年 にパナマ の外交官ロベルト・デ・アリアス と結婚した。その後、夫アリアスはパナマで政界進出を目論むが、1967年 遊説中に狙撃され、下半身不随となった。フォンテインは夫を最後まで看取ったのち、1991年 にガン によりパナマで死去した。
ヌレエフとのペア
1961年に亡命した際のヌレエフ
フォンテインは、観衆はおろかロイヤル・バレエ団を主宰するニネット・ド・ヴァロア からさえもそろそろ引退の時期だと思われ始めた時期に、芸術面で最高のパートナーを手に入れた。1961年、キーロフ・バレエ のスターだったルドルフ・ヌレエフ がパリで亡命し、ド・ヴァロアの招きでロイヤル・バレエ団に参加したのである。ド・ヴァロアは、フォンテインがヌレエフより19歳も年長なこともあって気が進まないながらも、ヌレエフのデビュー公演でフォンテインに組む機会を与えた。果たして1962年2月21日、溢れんばかりの観衆を前に『ジゼル 』を演じたフォンテインとヌレエフには15分もの間鳴り止まぬ拍手が送られ、カーテンコールで実に20回も呼び出された。続く11月3日の『海賊 』のパ・ド・ドゥでも喝采のあまり上演が中断せんばかりの名演を披露した。各誌はこぞって「別世界のよう "otherworldly"」と報じ、オブザーバー 紙に至っては公演は「圧倒的 "knockout"」で、このペアは「歴史を作る "history-making"」とまで評した。数日後の『レ・シルフィード 』も米国紙で絶賛をもって取り上げられた。フォンテインは同年にケンブリッジ大学から法学の名誉博士 号を授与された。
フレデリック・アシュトン は二人に『マルグリットとアルマン (英語版 ) 』を振り付けたが、21世紀に至ってもなお他にこれを踊るペアは現れていない。1963年にマイケル・サムズ とも組んで踊ったプレミアは公演前から大いに話題となった。これは途中に1回ソロを挟むだけでパ・ド・ドゥの応酬が続く構成で、出だしの「一目ぼれ 」から死のシーンに至るまで力強さに満ちたものであった。サムズは、フォンテインとヌレエフの素晴らしさは、単なるパートナーではなく、才能を同じくし、互いを最高の演技へと高めあう二人のスターが並び立っていたからだと評している。公演にはエリザベス王太后 、マーガレット王女 およびケント公妃マリナ の臨席も賜り、たちまち成功を収めた。この公演はペアの人気を不動のものとする、証明書のような演目となった。
1964年には、フォンテインとヌレエフはオーストラリア・バレエ団とシドニーからメルボルン に至る客演ツアーを行い、『ジゼル』と『白鳥の湖』に出演した。わずかな休息を挟んでシュトゥットガルト でも演じている。フォンテインは同年6月8日のバスでの公演中に夫ロベルトが政敵に銃撃されたことを知らされたが、その容態は不明であった。フォンテインは動揺しながらも翌日行われたケネス・マクミラン の新作のパ・ド・ドゥとディヴェルティメントの公演を踊りきり、パナマへと向かった。ロベルトはアルフレド・ヒメネスに4発撃たれ、頸髄損傷 により四肢麻痺の後遺症が残る状態であった。彼女はロベルトの治療費のために、引退するわけにはいかなくなった。その後、ロベルトは車椅子生活を余儀なくされたが、フォンテインはそれをよく支え、自分が旅に出るときも夫を伴うことが多かった。フォンテインは2週間のうちにロンドンに戻り、夫がストーク・マンデヴィル・ホスピタル の国立総合脊髄損傷センターで治療を受けられるよう手配を済ませると、すぐに踊り始めた。続く10日間のうちに、フォンテインはヌレエフ振付版の『ライモンダ 』のリハーサルをこなしつつ『ラ・バヤデール 』、『ジゼル』、『マルグリットとアルマン』の公演6本に出演している。ただし、ロベルトの容態悪化もあって、スポレト での『ライモンダ』の公演は、最後の舞台を除いて出演できなかった。
TV番組「ザ・ハリウッド・パレス」に出演したフォンテインとヌレエフ。中央はフレッド・アステア 。1965年。
フォンテインとヌレエフは、『眠れる森の美女』や『白鳥の湖』などのクラシック作品の演技で特に注目された。フォンテインは、役柄の本質を見抜き、常に演技を向上させていた。ヌレエフは、『ラ・バヤデール』や『ライモンダ』ではフォンテインをパートナーにすることを頑として譲らなかったほか、1964年にはウィーン国立バレエ団 に『白鳥の湖』で客演するにあたり、自ら振付を行っている。このときの演技は映像で記録されたほか、スノードン卿 が撮影した写真は『ライフ 』1964年11月27日号の表紙を飾っている。1965年1月20日にはワシントンD.C. で行われたリンドン・ジョンソン の大統領就任式典で『海賊』のパ・ド・ドゥを演じている。その年の後半には、ケネス・マクミラン振付の『ロメオとジュリエット 』の初演を飾った。ただ、マクミランはもともとリン・シーモア とクリストファー・ゲイブル のために振付を行っており、初演でフォンテインとヌレエフが演じたのはロイヤル・オペラ・ハウス の支配人であったデイヴィッド・ウェブスターが興行上の理由でねじ込んだためであった(このことがきっかけで、マクミランとシーモアは後にロイヤル・バレエ団を去ってしまう)。ウェブスターの目論み通り、マクミラン版『ロメオとジュリエット』は大成功し、初演から1年経っても毎夜上演されるほどであった。観客は二人に山のような花束を贈り、何度もカーテンコールを求めた。役者としてのフォンテインの深みが演技を独特なものにし、マクミラン版のジュリエットはフォンテインの当たり役の一つとなった。
フォンテインとヌレエフは生い立ちも気性も異なる(ヌレエフが鋭気勃々とした激情家なのに対し、フォンテインは几帳面であった)うえに19歳も離れているにもかかわらず生涯の友人となり、互いに誠実に向き合ったことで有名である。フォンテインは、ヌレエフの写りの悪い写真には見向きもせず、自らのレパートリー内であっても他のパートナーと踊ることはなかった。あまりに息が合った演技を見せることから、二人の間に肉体関係があったと噂されたが真偽は不明なままで、ヌレエフは1度あったと語ったのに対してフォンテインは否定している。フォンテインの伝記作家メレディス・デインマンは、何の証拠もないが自分としてはあったと考えると述べているのに対し、ヌレエフの伝記作家ダイアン・ソルウェイは、なかったと結論付けている。ヌレエフは、フォンテインについて次のように述べている。
『白鳥の湖』の最後に、彼女が素晴らしい白いチュチュで舞台を降りたとき、私は彼女を世界の果てまで追いかけようと思ったものだ。("At the end of 'Lac des Cygnes', when she left the stage in her great white tutu I would have followed her to the end of the world.")
1968年のフォンテイン
1965年には、ドキュメンタリー映画 "An Evening with the Royal Ballet " に『レ・シルフィード』と『海賊』のパ・ド・ドゥの映像で登場している。この映画は興行収入100万ドル超えとなり、当時のダンス映画における新記録を樹立した。1965年12月6日の週にはニューヨーク州とニュージャージー州だけで50館以上の映画館で上映された。
監督のパウル・ツィンナーはマルチカメラ撮影を駆使して舞台公演の雰囲気を見事に再現し、1966年には有名な『ロメオとジュリエット』も撮影している。同年、フォンテインはマンチェスター大学 の学長を務めるデヴォンシャー公 から名誉音楽博士号を授与された。
1967年にはローラン・プティ が二人のために新作バレエ『失楽園』を書いている。この作品は、ヌレエフを精力的なアダム、フォンテインを上品なイヴとして、二人の個性を強調するように構成された、抽象的でモダンなものであった。ポップアートによる装飾と点滅するネオンを取り入れた舞台は、ミック・ジャガー とそのガールフレンドで歌手のマリアンヌ・フェイスフル を含むファン達を大いに刺激した。
フォンテインは1972年には半引退生活に入り、一幕物にのみ出演するようになった。1974年には、英米の芸術交流への貢献に対してロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ からベンジャミン・フランクリンメダルを授与された。フォンテインはモダンダンスにも取り組み、1975年6月にホセ・リモン 作『ムーア人のパヴァーヌ』のデズデモーナ役でシカゴ・バレエ団と共演、翌7月にはワシントンD.C.のケネディ・センター で同役をヌレエフと踊っている。この2公演の間には、マーサ・グラハム・ダンス・カンパニーとともにサラトガ 、ニューヨーク、アテネ、ロンドンを巡演し、ケネディ・センターの後はブラジルツアーに出かけている。1975年11月にはウリス・シアターでヌレエフと「フォンテイン・アンド・ヌレエフ・オン・ブロードウェイ」と題した公演を行っている。この公演は印象的なものであったが、フォンテインがもはや要求の高い役柄をこなせなくなったことも明らかになった。1976年には自伝を出版したが、すべてを語り尽くしたわけではなかった。夫ロベルトは存命であったし、フォンテインはあくまで私人であって、穏当だが気難しい人だったからである。1977年にはハンブルク においてアルフレッド・トプファー財団F.V.S. (英語版 ) からシェイクスピア賞を授与されたが、これは舞踏家に対して初めての授与であった。1974年ベンジャミン・フランクリン・メダル 受賞。
映像作品
主演
日本語訳された著作
バレリーナの世界 マーゴ・フォンテーンが語る(湯河京子 訳 音楽之友社 1981年)
マーゴ・フォンテーン自伝 愛と追憶の舞(湯河京子訳 文化出版局 1983年)
アンナ・パヴロヴァ 白鳥よ、永遠に(湯河京子訳 文化出版局 1986年)
バレエの魅力(湯河京子訳 新書館 1986年)
出典
参考文献
Bentley, Toni (5 December 2004). “'Margot Fonteyn': Leaping Beauty” . The New York Times (New York City, New York). オリジナル の12 July 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180712134408/https://www.nytimes.com/2004/12/05/books/review/margot-fonteyn-leaping-beauty.html 12 July 2018 閲覧。
Bryden, Ronald (2 April 1966). “Dame Margot's Juliett—Great, and Perhaps, Last role” . The Gazette (Montreal, Canada): p. 20. https://www.newspapers.com/clip/21180652/the_gazette/ 22 June 2018 閲覧。
Campbell, Mary (16 February 1990). “Ballerina Dame Margot Fonteyn has foothold on dance history” . The News-Press . Associated Press (Fort Myers, Florida): p. 54. https://www.newspapers.com/clip/21180707/newspress/ 22 June 2018 閲覧。
Daneman, Meredith (2005). Margot Fonteyn: A Life (1st ed.). London, England: Penguin Books . ISBN 978-0-670-84370-1 . https://archive.org/stream/margotfonteyn00dane#page/1/mode/1up
Fonteyn, Margot (1976). Autobiography . New York, New York: Alfred A. Knopf . OCLC 882459895
Greskovic, Robert (2005). Ballet 101: A Complete Guide to Learning and Loving the Ballet . Milwaukee, Wisconsin: Hal Leonard Corporation . ISBN 978-0-87910-325-5 . https://books.google.com/books?id=2COs6yh_LS0C&pg=PA449
Hall-Balduf, Susan (7 January 1993). “Ballet World Darkens (pt 1)” . The Honolulu Advertiser . Knight Ridder (Honolulu, Hawaii): p. 19. https://www.newspapers.com/clip/21181420/the_honolulu_advertiser/ 22 June 2018 閲覧。 and Hall-Balduf, Susan (7 January 1993). “Nureyev: Ballet great dies at 54 (pt 2)” . The Honolulu Advertiser . Knight Ridder (Honolulu, Hawaii): p. 20. https://www.newspapers.com/clip/21181473/the_honolulu_advertiser/ 22 June 2018 閲覧。
Kaufman, Sarah L. (2015). The Art of Grace: On Moving Well Through Life . New York, New York: W.W. Norton & Company . ISBN 978-0-393-24396-3 . https://books.google.com/books?id=Du1wBgAAQBAJ&pg=PT109
Kavanagh, Julie (2011). Nureyev: The Life . New York, New York: Knopf Doubleday Publishing Group . ISBN 978-0-307-80734-2 . https://books.google.com/books?id=E6Isra1O6QkC&pg=RA1-PR24
Lebrecht, Norman (2001). Covent Garden: The Untold Story: Dispatches from the English Culture War, 1945-2000 . Boston, Massachusetts: Northeastern University Press . p. 225 . ISBN 978-1-55553-488-2 . https://archive.org/details/coventgardenunto00norm
Lloyd, Stephen (2014). Constant Lambert: Beyond the Rio Grande . Woodbridge, Suffolk, England: Boydell & Brewer Ltd. ISBN 978-1-84383-898-2 . https://books.google.com/books?id=hMzCAwAAQBAJ&pg=PA210
Mitoma, Judy (2002). Envisioning Dance on Film and Video . New York, New York: Routledge . ISBN 978-0-415-94171-6 . https://books.google.com/books?id=eX0hSyKaPKgC&pg=PR24
Percival, John (24 May 2008). "Fonteyn, Dame Margot [real name Margaret Evelyn Hookham; married name Margaret Evelyn de Arias]" . Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/49643 . 2018年6月20日閲覧 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
Rinaldi, Robin (2010). Ballet . New York City, New York: Infobase Publishing . ISBN 978-1-4381-3189-4 . https://books.google.com/books?id=08ShD5KpS6AC&pg=PA71
Sarmento, William E. (7 December 1975). “Margot and Rudy together again—for the last time?” . Lowell, Massachusetts: The Lowell Sun . p. 30. https://www.newspapers.com/clip/21240652/the_lowell_sun/ 24 June 2018 閲覧。
Shearer, Ann (19 February 1966). “Duke's triumph amid the academic glory”. The Guardian (London, England): p. 14. ProQuest 185126205
Solway, Diane (1998). Nureyev: His Life (1st ed.). New York, New York: William Morrow and Company . ISBN 978-0-688-12873-9 . https://archive.org/stream/nureyevhislife00solw#page/263/mode/1up
Whitbeck, Doris (15 June 1975). “Fonteyn Studies Desdemona role” . The Hartford Courant (Hartford, Connecticut): p. 149. https://www.newspapers.com/clip/21240592/hartford_courant/ 24 June 2018 閲覧。
“Benjamin Franklin Medal”. Journal of the Royal Society of Arts (London, England: Royal Society for the Encouragement of Arts, Manufactures and Commerce ) 134 (5359): 427. (June 1986). ISSN 0035-9114 . JSTOR 41374158 .
“Dancing Defector: London Acclaims Ballet Twosome” . The Corpus Christi Caller-Times . Associated Press (Corpus Christi, Texas): p. 16. (30 December 1962). https://www.newspapers.com/clip/21181215/the_corpus_christi_callertimes/ 22 June 2018 閲覧。
“Fonteyn, Nureyev Broadway-Bound” . The Asbury Park Press . Associated Press (Asbury Park, New Jersey): p. 9. (21 October 1975). https://www.newspapers.com/clip/21240509/asbury_park_press/ 24 June 2018 閲覧。
“London Ballet Fans Hail Ex-Russian Star” . The Hartford Courant . Associated Press (Hartford, Connecticut): p. 10. (22 February 1962). https://www.newspapers.com/clip/21188153/hartford_courant/ 22 June 2018 閲覧。
“Margot, Greene Honored” . The Miami News (Miami, Florida): p. 24. (14 June 1962). https://www.newspapers.com/clip/21806366/margot_greene_honored_the_miami_news/ 12 July 2018 閲覧。
“(untitled)” . Wilmington, Delaware: The Morning News. (17 January 1977). p. 9. https://www.newspapers.com/clip/21803563/untitled_the_morning_news/ 12 July 2018 閲覧。
関連書籍