マルティデ・フォルメラー=プルマン
![]() マルティデ・フォルメラー=プルマン(Mathilde Vollmoeller-Purrmann、1876年10月18日 - 1943年7月17日)は、ドイツの画家である。1812年に画家のハンス・プルマンと結婚した。 略歴シュトゥットガルトで生まれた。父親のロベルト・フォルメラー(Robert Vollmöller: 1849-1911)は繊維業界で成功した実業家で、社会貢献にも熱心であった。兄弟には実業家のルドルフ・W・フォルメラー(Rudolf W. Vollmoeller: 1874-1941)[1]や、作家で実業家のカール・グスタフ・フォルメラー(Karl Gustav Vollmoeller: 1878-1948)、航空の先駆者のハンス・フォルメラー(Hans Robert Vollmöller: 1889-1917)、古物収集家、作家のクルト・フォルメラー(Kurt Vollmöller: 1890–1936)らがいる[2]。 10歳まで、年の近い姉と弟と家庭教師から教育を受け、外国語に堪能であった母親や使用人の中で育った。ピアノやスポーツが得意で、声楽やダンスも習ったった。1894年に母親が亡くなり、姉と家事を行った[1] 。 1897年に弟のカール・グスタフ・フォルメラーが学んでいたベルリンに移り、弟とともに暮らした。ベルリンでザビーネ・レプシウス(1864-1942)とレオ・フォン・ケーニッヒ(1871-1944)に絵を学んだ。1897年11月、ザビーネ・レプシウスとラインホルト・レプシウスの夫妻の家で開かれた詩人のシュテファン・ゲオルゲ(1868-1933)の詩の朗読会で若き日の詩人、ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)と知り合い[3]、フォルメラーがパリに移った後の1906年から1920年の間にリルケとの間でやり取りされた100通あまりの書簡は後に出版された[4]。ベルリンでは、ベルリン分離派の画家マックス・リーバーマンやロヴィス・コリントととも知り合った。弟のカール・グスタフ・フォルメラーとともに『イギリス少女のラブレター』という英語の小説をドイツ語に翻訳したとされる[5]。またローマやオランダなどに旅した。 1906年にパリに移り、父親の援助を受けて、スタジオを借りて絵の修行を続けた[1]。1907年から展覧会に出展を始め、サロン・ドートンヌやアンデパンダン展に出展した。1908年に後に夫となる4歳年下の画家、ハンス・プルマン(1880-1966)と知り合った。1908年にアンリ・マティスが1908年から1911年まで教えた、「アカデミー・マティス」に入学した[1]。1911年3月に父親が重病になり、シュトゥットガルトに戻り、10月に亡くなるまで父親の世話をした。 1912年1月に、ハンス・プルマンと、シュトゥットガルトで結婚し[1]、フィレンツェとコルシカ島への新婚旅行の後、パリに住んた。3人の子供が生まれたが、画家の活動を続けた。南ドイツのバイルシュタイン (ハイルブロン郡)バイルシュタインで夏を過ごしていた時、第一次世界大戦が始まり、パリに戻れなくなり1914年から1916年の間は父親の邸に住んだ。1915年にハンス・プルマンはベルリンに移り、1916年に家族もベルリンに移った。 1919年にボーデン湖畔の村の漁師の家を購入し、夏を過ごすようになった。ハンス・プルマンはイタリアで活動するようになり、1923年から1928年の間は、一家はローマに住み、夏の間だけボーデン湖で過ごした。 ナチスが権力を掌握した後、ハンス・プルマンの作品は「退廃芸術」に指定され迫害を受けた。この時期、ナチスに批判的であっため逮捕されようとしていた風刺画家のトーマス・ハイネ(1867-1948)の国外脱出を支援した。ベルリンのアパートに数週間、匿まった後、親戚の葬儀に参加する名目で、ハイネのパスポートを用意し、ハイネをプラハに亡命させた[6]。1935年にベルリン分離派の会長であったマックス・リーバーマンの葬儀にゲシュタポの監視下でで夫婦で参加した。 1935年から、イタリアに亡命し、ハンス・プルマンは、フィレンツェで後援者を得て芸術活動をすることができた。 マルティデ・フォルメラー=プルマンは1943年にルガーノ湖畔のスイスの村Castagnolaで亡くなった。 作品
脚注
参考文献
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