マルセロ・シャムスカ
マルセロ・シャムスカ (Marcelo Chamusca) ことマルセロ・アウグスト・オリヴェイラ・シャムスカ(Marcelo Augusto Oliveira Chamusca, 1966年10月7日 - )は、ブラジル・サルヴァドール出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(守備的ミッドフィールダー)。日本での登録名はマルセロ (Marcelo) 。ペリクレス・シャムスカは実兄。 4部からなるカンピオナート・ブラジレイロの各カテゴリーにおいて、クラブを昇格へ導いた唯一の監督である。 経歴1979年にECバイーアの下部組織へ加入し、同クラブのトップチームで2年間プレー。U-17及びトップチームのカンピオナート・バイアーノにおいて、それぞれ2度の優勝を経験している。その後下部リーグの複数クラブに所属し、1993年に現役を引退した[1]。 現役引退の同年より、バイーアのライバルクラブであるECヴィトーリアにおいてU-17部門の監督に就任する。カンピオナート・バイアーノU-17で5連覇に導き、2つの国際大会を制覇している。1996年にはPSVアイントホーフェンで2か月間コーチングを学んだ。 2000年2月にバイーアへ舞い戻りU-17チームを率いると、5つのタイトルを齎した。中でも2001年のマルセイユ国際トーナメントでは、FCバイエルン・ミュンヘンやオリンピック・マルセイユを破って同大会で優勝へ導いている。 2003年にパウメイラス・ノルデスチでディレクターを務め、翌年1月30日からはCRBで自身初となるトップチームの監督に就任する[2]。 2004年7月より兄ペリクレスが指揮を執るADサンカエターノでアシスタントコーチを務め、以後複数のクラブで兄を支えた。2005年9月にペリクレスがJ1・大分トリニータの監督に就任すると、ヘッドコーチとしてクラブのスタッフに加わる。徹底したスカウティングによる対戦相手チームの分析を担当し、「シャムスカ・マジック」の影の立役者となっていた[3]。 2012年9月にはECPPヴィトーリア・ダ・コンキスタの指揮官に就任[4]。同年12月よりサウゲイロACを指揮し[5]、2013年にクラブをセリエCへ復帰させる。同年12月、セリエCのフォルタレーザECと1年契約を締結する[6]。 2015年より呂比須ワグナーの後任としてセリエBのアトレチコ・ゴイアニエンセに招聘されるが[7]、同年2月19日に成績不振を理由に辞任した[8]。 同年3月2日にフォルタレーザへ復帰するが[9]、10月22日に退任。12月4日よりサンパイオ・コヘイアFCの指揮を執るが[10]、翌年3月3日に解任となった[11]。 2016年4月6日にピンタードの後任としてグアラニFCの監督に就任すると[12]、セリエB昇格を達成。同年11月30日より、セリエCのパイサンドゥSCを率いる[13]。 2017年6月18日、パイサンドゥを去りセアラーSCに招聘される[14]。同年のシーズンでクラブをセリエAへ導き、カンピオナート・ブラジレイロにおける各カテゴリーで昇格を達成した史上初の監督となった。2018年5月20日、成績不振により解任された[15]。 2018年9月2日にセリエBのAAポンチ・プレッタの指揮官に就任する[16]。しかし5試合で勝利を挙げられず、同月26日に解任された[17]。 12月6日、ECヴィトーリアにトップチームの監督として復帰しカルペジアーニから任を引き継ぐ[18]。翌年3月18日、カンピオナート・バイアーノ敗退後に解任が発表された[19]。 4月7日にCRBへ舞い戻る[20]。10月4日に解任されるとクイアバECへ招聘された[21]。 2020年11月11日にクイアバを去り、同月13日よりロジェリオ・セニの後任としてフォルタレーザの監督に3度目の就任となる[22]。翌年1月7日、成績不振によりその任を解かれた[23]。 2021年2月19日、セリエBへ降格したボタフォゴFRの監督に就任する[24]。アシスタントコーチを務めて以来16年振りに指揮官として同クラブへ帰還したが、セリエBで中位に留まる中で7月13日に解任となった[25]。 タイトル
脚注
外部リンク
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