マルクス・ウァレリウス・メッサッラ (紀元前32年の補充執政官)
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ(ラテン語: Marcus Valerius Messalla 、紀元前80年ごろ - 没年不明)は紀元前1世紀中期・後期の共和政ローマ・帝政ローマの政治家・軍人。紀元前32年に補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。 出自メッサッラは、ローマで最も著名なパトリキ(貴族)であるウァレリウス氏族の出身である。ウァレリウス氏族の祖先はサビニ族であり、王政ローマをロームルスとティトゥス・タティウスが共同統治した際に、ローマへ移住したとされる[1]。その子孫に共和政ローマの設立者の一人で、最初の執政官であるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラがいる。その後ウァレリウス氏族は継続的に執政官を輩出してきた。メッサラのコグノーメン(第三名、家族名)を最初に使用したのは、紀元前263年の執政官マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラである。第一次ポエニ戦争でメッセネ(現在のメッシーナ)の解放に成功したことを称えて、メッサッラと名乗った[2]。その後800年にわたって、彼の一族はこの名前を名乗り続けていた。 本記事のメッサッラの父は紀元前53年の執政官マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフスである[3]。 経歴紀元前53年、即ち父が執政官を務めていたときに、メッサラは造幣三人官として政治の道を歩み始めた[4]。 カエサルとポンペイウスの内戦ではどちらにも加担せず、第二回三頭政治が始まっても中立を保っていた。紀元前32年、正規執政官二人は共に辞職し、エフェソスにいたマルクス・アントニウスの下に向かった。このためメッサッラは補充執政官に就任することとなった[5]。その後のことに関しては不明である。 家族メッサッラには実の息子はいなかった。このため、養子を迎えてマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・アッピアヌスと名乗らせた。この人物はアッピウス・クラウディウス・プルケル(紀元前38年執政官)の息子と思われる[6]。キリキア属州のマッルスの街のパトロネスであるマルクス・ウァレリウスは、本記事のメッサラのことと思われる[7]。 脚注参考資料
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