マリー・ド・フランス (詩人)
マリー・ド・フランス(Marie de France、フランス生まれのマリー、? - ?)は、中世フランスの女流詩人である。文才および学問に秀でていた。彼女の詳しい人生は不明である[1]。 12世紀後半[注 1]のイングランド宮廷(プランタジネット朝・アンジュー家)へ赴き、詩作およびラテン文学翻訳を行ない、アングロ=ノルマン語[注 2](古フランス語の一方言)による作品を残した[注 3]。 本名は不明であり「マリー・ド・フランス」と呼ばれるのは、作品中の "Marie ai nun, si sui de France(私の名はマリーで、フランスの出身です)" の一行に由来する。 概要人物研究マリー・ド・フランスが誰であったか、数名の人物が推定の対象になっている。アンジュー伯ジョフロワ5世の庶子でヘンリー2世の異母姉妹にあたり後にシャフツベリー (Shaftesbury) 尼僧院長となったマリー(メアリー)、レディング尼僧院長のマリー、スティーヴン王の娘のブローニュ女伯マリー、バーキング尼僧院長のマリー[2]、そしてヒュー・タルボットの妻マリー・ド・ムーランである[3][4][5]。 イングランド宮廷(ヘンリー2世とその王妃アリエノール・ダキテーヌ)のメンバーだったと推測されている[1]。 1816年、イギリスの詩人マティルダ・ベサム=エドワーズ (Matilda Betham-Edwards) は、8音節の語の二行連で書いた“The Lay of Marie”(マリーのレー)の中で、彼女に関する長い詩を書いた。 作品研究研究家たちはマリーの作品(下記)の製作年は、最も早いもので1160年頃、最も遅いもので1215年頃の間だとしていて、4つの作品が書かれたのは1170年頃から1205年までの間だろうとされている。 作品の一つの『レー』は、「高貴なる王」および「ウィリアム伯」に捧げられている。「王」とはヘンリー2世もしくは長男の若ヘンリー王と考えられている。「ウィリアム伯」は不明であるが、ウィリアム・ド・マンデヴィル (en) もしくはウィリアム・マーシャルと推測されている。 作品3つの作品が彼女のものと分かっている。
また近年、次の作品がマリー・ド・フランスによるものとの説が出された。
著作の日本語訳
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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