マリーア・ヴィットーリア・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナ
マリーア・ヴィットーリア・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナ(イタリア語: Maria Vittoria dal Pozzo della Cisterna, 1847年8月9日 - 1876年11月8日)は、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男アオスタ公アメデーオの最初の妃。夫が1870年から1873年までアマデオ1世としてスペイン王の座にあった間、スペイン王妃であった。 スペイン語名は、マリア・ビクトリア(María Victoria dal Pozzo della Cisterna)。 生涯サルデーニャ王国の貴族で自由主義政治家であった第5代チステルナ公カルロ・エマヌエーレ・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナと、その妻でベルギー貴族のルイーズ・ド・メロード=ウェステルロー女伯の長女として生まれた[1]。全名はマリーア・ヴィットーリア・カルロッタ・エンリケッタ・ジョヴァンナ(伊: Maria Vittoria Carlotta Enrichetta Giovanna)。母方の叔母アントワネットは、モナコ公シャルル3世の妃である。 1863年5月30日にトリノでイタリア王子のアオスタ公アメデーオと結婚した[1]。2人の結婚式において、多くの不幸な出来事が起こったと言われている[2]。夫妻の間には第2代アオスタ公エマヌエーレ・フィリベルトを始めに3人の子どもが生まれた。マリーア・ヴィットーリアは翌1864年に父が死ぬと、第6代チステルナ=ベルリグアルド女公、第7代ヴォゲーラ女侯および第9代ポンデラーノ女伯の爵位を相続した。 夫のアオスタ公が1870年11月16日にスペイン王に選出されると、マリーア・ヴィットーリアもスペイン王妃となった。王妃としての彼女は控えめで、慈善活動にのみ熱心に取り組んだ。1873年2月11日に夫が廃位されると、マリーア・ヴィットーリアもイタリアに帰国した。逃避行と出産で体を痛めていたマリーア・ヴィットーリアは、その年のうちに亡くなった[3]。夫のアメデーオは1888年、実の姪であるマリー・レティシア・ボナパルトと再婚している。 子女夫アメデーオとの間に3人の息子をもうけた。
脚注
関連項目ウィキメディア・コモンズには、マリーア・ヴィットーリア・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナに関するカテゴリがあります。
|