マヌエル・ポンセ
マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(Manuel María Ponce Cuéllar, 1882年12月8日 - 1948年4月24日)は、メキシコの作曲家・音楽教師、ピアニスト。後期ロマン派音楽の作曲様式から新古典主義に転じた。 経歴サカテカス州フレスニージョで生まれたが、生後間もなくアグアスカリエンテスへ移った。地方の聖堂で教育を受けつつ、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学んだ。1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事した。1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始める。この時期の門人にカルロス・チャベスがいた。ピアニストとしては、ドビュッシーなどの作品の紹介に努めた。メキシコ革命の混乱を避けて1915年から1917年までキューバに滞在し、この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たした。その後メキシコに戻って国立交響楽団の指揮者を務め、フランス出身の女性歌手と結婚する。1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカに作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結ぶ。短期間ではあったがナディア・ブーランジェにも師事している。1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍した。 晩年は腎臓病、リウマチに苦しんだ。1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞したが、間もなくメキシコシティで尿毒症により死去した。翌1949年、メキシコ国立芸術院のホールが "Sala Manuel M. Ponce" と命名された。メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されている。 ポンセは今日、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者として有名である(詞も彼自身による)。しかし、新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残した。初期のピアノ協奏曲は、シューマンを思わせる叙情性と情熱的な表現によって、ロマン派音楽の伝統で作曲されている。この他にも、ロマン派から印象派までの影響を受けたマズルカなどの舞曲、演奏会用練習曲、変奏曲やフーガなどのピアノ曲を多数残しているが、失われた曲も多いとされる。 しかしポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されており、ギター演奏家に人気がある。 ポンセはヨーロッパ仕込みの洗練された作風で知られ、創作の素材としてはスペイン征服後の民謡を多く用いた(ピアノ用に2曲残した『メキシコ狂詩曲』(1911年/1913年)など)。しかし、後年には教育用の『20のやさしい小品集』(1939年)において先住民族の民謡を素材として用いている。また、フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じた。 主要作品管弦楽曲
協奏曲室内楽曲
ピアノ曲
ギター曲歌曲
文献
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia