マッターホルン
マッターホルン(独: Matterhorn)は、アルプス山脈に属する標高4,478mの山である。イタリア語では「チェルヴィーノ」(Cervino、「鹿の角」の意)、フランス語では「セルヴァン」(Cervin)である。 山頂にはスイスとイタリアの国境が通り、麓の町はスイス側にツェルマット、イタリア側にブレイユ=チェルヴィニアがある。マッターホルンという名称は、ドイツ語で牧草地を表す「Matt」と、角または角のような山頂を表す「Horn」に由来している。 地形と地質山体はピラミッド型で4つの斜面があり、東壁の落差は1,000 m、北・南・西壁はそれぞれ1,200 m・1,350 m・1,400 mほどである。東壁と北壁がツェルマットから見える。傾斜が激しい斜面では氷雪はわずかに残るのみである。雪は雪崩を起こして滑り落ち、場所によっては氷河を造り出す。マッターホルンの切り立った北壁は、アイガーおよびグランド・ジョラスと合わせ三大北壁と呼ばれる。 基部は堆積岩であるが山体は片麻岩で形成されている。パンゲア大陸が分裂し始めた2億年前にゴンドワナ大陸のアフリカ部分として残ったアプーリア・プレートが、1億年前に同大陸から分離しヨーロッパ大陸へ移動して乗り上げた[注釈 1]、ナッペと言われる地質構造を示す。山容はその後の氷河の作用で形成されたもので、こういった地形は氷食尖峰と呼ばれる。 登山史マッターホルンが制覇されたのはアルプスの他の山々と比べれば最近のことである。これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということを初期の登山家達が恐れたからであった。マッターホルン制覇の試みが始まったのは1857年頃で、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。しかしイタリア側の登山路は険しく、多くの登山隊は岩壁を攻略できずに退散した。 数回の失敗と民族主義的な中傷を受けつつも、1865年7月14日、エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロとタウクヴァルター父子をガイドにして登頂に挑戦して初めてこれに成功、これがアルプス黄金時代の終焉とされる。この時に選んだヘルンリ尾根を通る登山路は他のルートより平易であった。下山中、ハドウの滑落にクロとハドソン、ダグラス卿が巻き込まれ、クライミングロープが何らかの衝撃により切れ4人は1,400 m下に落下して死亡した。発見されなかったダグラス卿を除く3人の遺体はツェルマットの墓地に埋葬された。生き残ったウィンパーはこの事件について1871年に出版した『アルプス登攀記』で弁明した。 初登頂から3日後の7月17日、ジャン=アントワーヌ・カレル率いる登山隊がイタリア側からの登頂に成功した。1868年にはジュリアス・エリオットが自身2度目の登頂を果たし、同年ジョン・ティンダルは2人のガイドとともにマッターホルン初縦走に成功した。1871年にはルーシー・ウォーカーがライバルのメタ・ブレヴォールに数週間先だって女性初の登頂を成し遂げた。1923年には日本人として麻生武治が初登頂を果たし、1926年には昭和天皇の弟宮である秩父宮 が登頂を果たしている。 その他の主な登頂歴
登山全ての斜面と尾根は、全ての季節において制覇されている。現在の水準から言えば技術は必要であるものの、熟練登山家にとってそれほど難くない。部分的に補助用ロープが張られている部分さえある。しかし未熟な登山者による岩場からの滑落や遭難などで、年間何人かの登山者が命を落としているのが現状である。なお三大北壁の1つに数えられる北壁ルートは、熟練者であっても困難なルートである。
展望台
ギャラリー
備考
関連項目
脚注注釈出典
外部リンク
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