マグダレーナ・アバカノヴィッチ
![]() ![]() マルタ・マグダレーナ・アバカノヴィッチ=コスモフスカ(Marta Magdalena Abakanowicz-Kosmowska、1930年6月20日 – 2017年4月20日)とは、ポーランドの彫刻家、ファイバー・アーティスト、画家。ポーランドを代表する国際的アーティストの一人。 生涯ファレンティの地主の家の生まれ[1]。母親は古くからのシュラフタ(貴族)の血筋。父親はリプカ・タタール人出身。祖先は13世紀モンゴル帝国のアバカまで遡る。元はロシアに住んでいたが、十月革命で独立した独立したばかりのポーランド第二共和国に移住していた[2][3]。 アバカノヴィッチが9歳の時、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻が起こる。戦時中、家族はワルシャワ郊外で何とか耐え忍び、終戦後はポーランド北部、グダニスクに近いトチェフで新生活を始める。 1947年、トチェフの中学校を卒業したアバカノヴィッチは、グディニャの高校に進学し、絵を学ぶ。1949年にソポトの美術アカデミー[4]、1950年にはワルシャワ美術アカデミーに入学[4][5][6]。入学にあたっては貴族出身であることが妨げとなったので、会社員の娘と偽った[7]。当時のポーランド政府はヨシフ・スターリンが推し進める「形式においては民族的、内容においては社会主義的」な社会主義リアリズムのみを芸術として容認し、芸術家たちにはその研鑽を求めていた[8]。モダニズムなど西側の芸術はポーランドに限らず東欧諸国で禁止されていた。アバカノヴィッチはアカデミーの雰囲気が融通がきかない保守的なものに感じられた。
アカデミーでは、テキスタイルのデザインも受講する。具体的には、機織法、シルクスクリーン、織物デザインで、Anna Sledziewska、Eleonora Plutymska、マリア・ウルバノヴィチらに師事した[10]。 1955年にワルシャワ美術アカデミーを卒業。本格的に創作を始めるが、住居を転々としたため、初期の作品の多くは紛失したり破損したりして、わずかに植物の素描が数点残っているだけである。 1953年にスターリンが死んだことで、ポーランド政府はソビエト連邦からの政治的圧力から脱しはじめた。1956年、ヴワディスワフ・ゴムウカが就任すると、劇的な社会的・文化的変化が起きた。芸術の形式と内容にも自由化の波が押し寄せた。 1956年から1959年にかけてアバカノヴィッチは『biomorphic』という絵画のシリーズを創作する。これは想像上の植物、鳥、エキゾチックな魚、貝殻、その他のバイオモーフィック[注 1]な形態を組み合わせたコンポジションで、大きな紙や縫い合わせたリネンにガッシュ(グワッシュ)と水彩で描いたもの[10][注 2]。アバカノヴィッチはこのシリーズについてこう語っている。
自由化によって、パリ、ヴェネツィア、ミュンヘン、ニューヨークなど西欧の芸術を知るようになると、アバカノヴィッチは自分の絵画が「けばけばしく、構成不足」と感じるようになった[11]。幾何学・構造の手引としてロシア構成主義を学んだが、あくまで参考のため、自分自身の「芸術言語と、より触覚的、直感的、私的な芸術を生み出すための方法」のためだった[12]。その結果、新たな芸術的表現に"織物"を選んだ。 1960年春のコルデガルダ・ギャラリー(ワルシャワ)[注 3]で開催された初の個展で、アバカノヴィッチはガッシュ画、水彩画に加えて4つの織物作品を出展する。さほど世間の注目を浴びるものではなかったが、ポーランドのテキスタイル、ファイバーデザイン界における彼女の地位は高まり、1962年にスイスのローザンヌで催された第1回国際タペストリー・ ビエンナーレ(ローザンヌ・ビエンナーレ)に参加。これが彼女の国際的成功に繋がる[13]。 1965年のサンパウロ・ビエンナーレでグランプリ受賞を皮切りに多くの賞を受賞。また、1965年から1990年までポズナン芸術大学教授、1984年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授を勤めた[14]。 2017年に死去。 作品画像は公式ホームページ参照。 アバカン1967年から創り始めた巨大な三次元ファイバー・アートのシリーズ。美術界におけるアバカノヴィッチの地位を確立した。以後のアバカノヴィッチ作品の原点ともいえる作品[13]。素材はサイザル麻[13]、ロープ、麻、リンネル、ウール、馬の毛[5]。大きさは13フィートに達する場合もあり、天井から吊るすと下が地上すれすれにまで達する。 人体彫刻「頭」「背中」「群衆」などのシリーズがある。素材はファイバーの他、ブロンズ、石、粘土など。 『Caminando』(1998年/1999年)はロビン・ウィリアムズ夫妻がコレクションしていたが、ロビンの死後、ポーランドでオークションにかけられ、800万ズウォティという最高額をつけた[15]。 戦争ゲーム枝葉を取り除いた古い木の幹で作られた作品群。ボロ布を巻いたり、鉄の輪をかぶせたりして、金属製のスタンドなどの上に乗せる。 受賞
脚注注釈
出典
外部リンク
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