マイケル・コーコラン
マイケル・コーコラン(英:Michael Corcoran、1827年9月21日 - 1863年12月22日)は、アイルランド生まれのアメリカ合衆国の軍人。南北戦争の時に北軍の将軍を務め、エイブラハム・リンカーン大統領とは親しい友人となった[2]。第一次ブルランの戦いで参戦した第69連隊を率いた。ワシントンD.C.でもその連隊を率い、コーコラン砦を造ってワシントン防衛に努めた。 初期の経歴![]() コーコランはアイルランドのスライゴ県バリーモートに近いキャローキールで生まれた[1][2][8]。イギリス軍の士官トマス・コーコラン[9]とメアリー・マクドナー夫妻の一人息子だった。母方はジャコバイト戦争に参加した初代ルーカン伯パトリック・サーズフィールドの子孫だった[3]。コーコランが18歳の1846年に、ドニゴール県クリーズルーにおける違法な蒸留酒製造所や蒸留行動に対して法を適用し取り締まる税務警察に選任された。 1849年8月30日、スライゴ湾からアメリカ合衆国に移民し、ニューヨーク市に入って、マンハッタンのプリンス通り42番にあるジョン・ヒーニーが所有するハイバーニアン・ハウスという酒場で事務員の仕事を見つけた。コーコランはヒーニーの姪エリザベスと1854年に結婚した。 コーコランは第69ニューヨーク民兵隊に兵卒として入隊した。1859年までにその連隊の大佐に指名された。この連隊は当時は軍人ではなく市民で構成される州の民兵隊であり、公的秩序の維持に関わっていた。1860年10月11日、コーコラン大佐はアイルランド飢饉にイギリスが無益な反応をしたことに対する抗議として、この時ニューヨーク市を訪問していた19歳のイギリス皇太子アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)を迎えるパレードへの連隊の参加を拒否した。コーコランは連隊長を外され軍法会議にかけられるところだったが、南北戦争が始まったために中断された[10]。 コーコランはまた、タマニー・ホールの民主党政治に関与するようになり、アイルランド人の票をまとめた。住んでいた地区の指導者となり、判事指名委員会のメンバー、第14区の選出視学官、および区議会議員となった。 南北戦争南北戦争が勃発すると、軍法会議は中断され、コーコランは他のアイルランドからの移民を北軍側に付かせる提唱者だったために、その連隊長に戻された。コーコランは第69ニューヨーク歩兵連隊をワシントンD.C.に率いて行き、コーコラン砦を造ってしばらくはワシントン防衛に努めた。1861年7月には第一次ブルランの戦いでその連隊を指揮した。この戦闘中、コーコランは負傷して捕虜になった。 魔女事件この時期、北軍は捕獲した南軍私掠船員を処刑すると脅していた。北軍が私掠船員に対する脅しを実行した場合、コーコランや他の北軍捕虜が抽籤によって処刑される立場にあった。これは魔女事件と呼ばれた。しかし、両軍共に処刑は実行されなかった。後にコーコランは南軍を攻撃しないという条件のもとに、仮釈放を提案された。コーコランは釈放されれば北軍の元の地位に帰る意思があったので、仮釈放の申し出を拒んだ。コーコランは1862年7月に志願兵の准将に指名されており、同年8月に捕虜交換で釈放された。この魔女事件における役割と仮釈放の拒否とで、コーコランは北軍への復帰時に話題を集め、これがもとでエイブラハム・リンカーン大統領との食事会に招待された。 コーコラン師団と死コーコランは軍隊に復帰し、さらに多くのアイルランド系志願兵の徴募に取りかかった。コーコランは、後にコーコラン師団と呼ばれることになる部隊を立ち上げ、その指揮を執った。そのリージョンは次の連隊で構成された。
コーコランは第7軍団第1師団長になり、デザーティドハウスの戦いに従軍し、サフォーク包囲戦に参加した。1863年遅く第22軍団の師団長となり、ワシントン防衛任務に戻った。1863年12月22日、単独で騎乗している際に騎馬が倒れ、頭蓋骨骨折で死んだ。36歳だった。 コーコランは、そのアイルランド系アメリカ人部隊によって大いに偶像視された。その名前とさらにニューヨーク第69連隊とは当時のアイルランド系北軍兵のバラードの多くに登場する。
バリーモート記念碑ニューヨーク市長マイケル・ブルームバーグ(バリーモートの記念碑除幕に間違ったコーコラン家の人を招いた)は2006年8月22日にバリーモートで戦う第69連隊に捧げられたアイルランドの国立記念碑を除幕した[11]。この記念碑はフィリップ・フラナガンが制作した。記念碑頂部の周りの碑文には、「マイケル・コーコラン、1827年 - 1863年」とあり、台座にはニューヨーク、バリーモート、クリーズルー、ブルランと記されている。記念碑の下にはワールドトレードセンターの鉄片があり、2001年9月11日にセンターで死んだマイケル・リンチの家族によって捧げられた。リンチ家はスライゴ県の出身である。 脚注
外部リンク
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