ポール・サンドビー
ポール・サンドビー(Paul Sandby RA、1731年 – 1809年11月7日)はイギリスの水彩画家、版画家である。風景画を描いた。兄のトーマス・サンドビーとともに、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの創立会員になった[1]。 略歴ノッティンガムに生まれた。1731年に洗礼の記録があるが、これまでは1725年生まれとされてきた[2] 。兄に画家になったトーマス・サンドビー(Thomas Sandby: 1721–1798) がいる。1745年に兄が働いていたロンドンに移り[2]、陸軍の地図部門に雇われた。1745年のジャコバイト蜂起の後、ワトソン大佐(Colonel David Watson)に率いられて、 スコットランドのハイランド地方にあるジョージ砦への新しい補給路を調査する旅に、参加し製図係を務めた[3] 。 この任務の傍ら、スコットランドでは風景や出来事を水彩で描いた[4]。1751年に軍を止めて、王室の狩猟場、ウィンザー・グレート・パークの管理者の仕事をしていた兄のもとで過ごし、兄の助手をし、近くの城や街などの風景をスケッチした。これらの絵はトマス・ゲインズバラ(1727-1788)といった仲間の画家から賞賛された[4]。 版画家としても活動し、自分の絵を版画にしてた多くの版画を1860年代に出版し、兄、トーマス・サンドビーを含む他の画家の作品も版画にした[3]。画家のウィリアム・ホガース(1697-1764)を風刺するカリカチュアなど風刺的な版画も偽名で出版した。 ウィンザーで過ごしながら、毎年、ロンドンにも滞在していたとされ、1757年に結婚し、1760年からはロンドンに住んだ[3]。1760年に美術家グループ「Society of Artists」の最初の展覧会に開催に貢献し、この展覧会には1768年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが創立されるまで出展した。 1768年には王立陸軍士官学校の絵の教師に任じられ、1799年までその仕事を続けた[5]。1768年のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの創立時の28人の創立会員の一人となった。アカデミーの理事をしばしば務め、1769年から1809年の間の展覧会には、8回ほどを除いて毎年出展した。アイルランドを含むイギリス各地を旅し風景を描いた[3]。 作品水彩画
版画参考文献
関連文献
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