ボリス・フェドチェンコボリス・フェドチェンコ(Boris Alexejewitsch Fedtschenko、ロシア語表記:Борис Алексеевич Федченко、1872年12月27日 - 1947年9月29日)はソビエト連邦の植物学者である。 略歴父親は植物学者のアレクセイ・フェドチェンコで、母親のオルガ・フェドチェンコも植物学者である[1]。ボリス・フェドチェンコは夫妻が西ヨーロッパ旅行中にライプツィヒで生まれた[2]。ボリスの生まれた8ヵ月後に父親はモンブラン登頂中に事故死した。オルガ・フェドチェンコは息子とロシアに戻り、植物研究を続けた。1891年から翌年にかけて、オルガはボリスを伴ってウラル山脈に最初の植物調査を行い[2]、1893年には2人はクリミアを2度訪れ、クリミア山地やセヴァストポリ地域の植物を収集した[3]。1894年にはトランスコーカシア地方、1897年には天山脈西部を調査した。 1898年から1899年の間、サンクトペテルブルクの帝立植物園で働いた[4]。 1901年に、オルガとボリスはパミール山脈の植物探検を行い、その成果は"Materiaux pour la flore du Caucase" (1901)、"Flora of the Pamirs" (1901)、"Conspectus Florae Turkestanicae" (1913)などの著作で発表され、4145の植物の種が網羅された[4]。1899年から1904年の間、収集した植物を研究し、一連の論文を執筆し、標本類は植物園に収められ、現在ももっとも重要なコレクションのひとつになっている。1902年までに、帝立植物園の標本館の館長になり、植物園の紀要の編集を行い、1909年に「植物ジャーナル」(Ботаническiй Журналъ)の発刊をやめ、「ロシアの植物誌(Русскiй ботаническiй журналъ)の出版を始め、この雑誌は年に8巻、発行され、第一次世界大戦によって資金が不足した1915年まで発行された[5]。 1931年にサンクトペテルブルクの植物園と植物研究所は統合され、コマロフ研究所が創設されるとウラジーミル・レオンテヴィッチ・コマロフの後を継いで所長を務めた。大規模な事典『ソビエト連邦の植物』("Флора СССР")を作るプロジェクトも引き継いだが、それが完成するのは没後の1964年である[1]。 著作
参考文献
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