ホルミズド5世
ファッルフ・ホルミズド(ペルシア語:فرخهرمز、ファッロフザード・オフルマズド)またはホルミズド5世はサーサーン朝のシャーハンシャー(在位630年〜631年)。パルティア系の貴族、アスパーフバド家の出身で、サーサーン朝の北部スパーフベド(軍司令官)を務めていた。サーサーン朝の内乱の最中、サーサーン朝の王位を簒奪するためアーザルミードゥフトに求婚したものの、拒絶された。王位を宣言し、独自の硬貨を鋳造したものの、 アーザルミードゥフトの救援要請に応じたミフラーン家出身のスィヤーヴァフシュ(Siyavakhsh)に殺害された[1]。子にはロスタム・ファーロフザードやファールフザードがいる。 来歴ファッルフ・ホルミズド(以下ホルミズドと呼ぶ)は、アルサケス朝系の貴族である七大貴族の一つ、アスパーフバド家の出身である。祖先のバウィは、姉妹がカワード1世の妻かつホスロー1世の母にあたる人物であり[注釈 1]、軍司令官となった。ヴィンドゥーヤ(Vinduyih)と兄(ホルミズドの叔父)のヴィスタムは、王位を簒奪したミフラーン家出身のバフラーム・チョービン討伐と、甥のホスロー2世の復位に大きく貢献し、それぞれ大宰相と東北軍司令官(スパーフベド)に任命された。しかし、ホスロー2世は父を殺し[注釈 2]権力を増幅させたヴィンドゥーヤ(Vinduyih)とヴィスタムを警戒し、ヴィンドゥーヤ(Vinduyih)を処刑した[4]。これに対してヴィスタムはホスロー2世に反乱を起こした。ヴィスタムの反乱は、配下の将軍に裏切られるまで続いた[注釈 3]。ヴィスタムの反乱の鎮圧後には、ホルミズドは北部軍司令官(スパーフベド)の地位に就いている[5]。 東ローマ・サーサーン戦争の最中、ホルミズドと息子のロスタム・ファーロフザードはホスロー2世に反旗を翻した。東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスによるアートゥルパーターカーン地方への侵攻を許し、アードゥル・グシュナースプを始めとする複数の都市が略奪された[6]。 628年、イランの封建貴族はミフラーン家出身のシャフルバラーズの下に集い、ホスロー2性に対する反乱を起こし、投獄されていた長男のシェーローエー(後のカワード2世)を解放した。この反乱軍はホルミズドやその息子ロスタム・ファーロフザード、ファールフザード率いるアスパーフバド家やVaraztirots2世率いるアルメニア、現在のニーシャープール等を支配するKanarangが加わった[7]。 2月25日、シェーローエーは指揮官アスパド・グシュナースプとともに、クテシフォンを占領しホスロー2世を投獄した。代わって、シェーローエーはカワード2世として、サーサーン朝の王位を宣言した。カワード2世はホスロー2世が最も寵愛したマルダーンシャーを含めた、兄弟と異母兄弟を全員処刑した[8]。カワード2世による兄弟殺しは、「教養を持ち、勇敢で騎士道精神を持った」後継者を失うことになり、後にサーサーン朝における有能な君主の登場を妨げる事となり[9]、「狂った暴動行為」、「無謀」であるとも評価されている[10]。3日後、ミフル・ホルミズドにホスロー2世の処刑を命じ、処刑後にはミフル・ホルミズドも処刑した[11]。イラン系貴族の合意を得て、東ローマ帝国の失地を回復、賠償金の支払い、614年に奪われた聖十字架やその他の遺物の返還といった、東ローマ帝国に有利な休戦協定を結んだ[12]。 数ヶ月後、疫病がサーサーン朝西部で流行し、その地域の人口の半分が亡くなり、カワード2世もまた亡くなった[9][13]。カワード2世の失政は、その死後4年にわたる内乱を引き起し、権力を持った貴族たちは、完全な自治権を得て、独立色を強めることになった。ペルシア系貴族(ペルシグ派)とパルティア系貴族 (パフラブ派) の対立も再燃し、サーサーン朝の富を二分するようになった[9]。8歳の息子アルダシール3世が王位を引き継いだものの、2年後にはシャフルバラーズに処刑され、王位を簒奪された[14]。しかし彼もまた、40日後にはボーラーンを擁立したホルミズドによって殺された[15][16]。 ボーラーンの王位継承により、ホルミズドはウズルグ・フラマーダールの役職(後のイスラム王朝の大宰相に相当する)に任命された[17]。ボーラーンは、司法の実施、インフラの再設備、減税、硬貨の鋳造によって、帝国に安定をもたらすよう試みた[18]。彼女の統治は帝国全土の貴族や聖職者に受け入れられたことは、パールス、Abarshahr(現在のニーシャープール)、フージスタン、メディア等、帝国ほぼ全域で硬貨が鋳造されたことからうかがえる[18][19][16]。王が女性であることを理由に、異を唱える者はいなかった[20]。しかし、630年に彼女が退位させられると、シャフルバラーズの息子でホスロー2世の弟シャープーリ・シャフルヴァラーズがシャープール5世として即位した[21]。しかしこの即位を、ペルシグ派の実力者かつ大宰相のペーローズ・ホスローは正式なものと認めず、ボーラーンの妹のアーザルミードゥフトを王位に就けた[22]。 王位簒奪と死ホルミズドは彼の権威を強化し、パフラブ派とペルシグ派との間で暫定協定を結ぶために、ペルシグ派が擁立するアーザルミードゥフトに結婚を申し込んだが[23]、彼女はそれを拒んだ[24]。ホルミズドは政略結婚の拒否に対して、「もはや王位は辞退できない」として、「今日、私は国民のリーダーであり、エーラーン帝国の中枢である」と宣言した[24]。彼は従来のシャーが発行した硬貨と同様の形式の「ホルミズド5世」と銘打った硬貨の鋳造を始めた。この硬貨は主にパルス州のイスタフルやメディアのニハーヴァンドで鋳造されている[24]。ホルミズド5世の影響力は少なくとも帝国の北部と西部に及んでいた[25]。彼の自立的な態度に対して、アーザルミードゥフトは、シャーとなったバフラーム・チョービンの孫であるミフラーン家のスィヤーヴァフシュ(Siyavakhsh)と同盟を結び[26]、その援助の下でホルミズド5世を処刑した[27][25]。 その当時、ホラーサーンに駐在していた息子のロスタム・ファーロフザードはパフラブ派のリーダーを引き継いだ。父の敵討ちとして、"交戦した全てのアーザルミードゥフトの軍を撃破した"[28]。スィヤーヴァフシュの軍勢もクテシフォンで打ち破り、都市を占領した[28][29]。ロスタムはアーザルミードゥフトを盲目にした後に処刑して、ボーラーンを復位させた[28][1]。ロスタムは東部軍司令官(スパーフベド)として帝国で影響力をもち、ボーラーンが暗殺されると、ペーローズ・ホスローとともにヤズデギルド3世を擁立し、4年にわたる内乱を収束させた[30]。 家系図
脚注注釈引用
参考資料
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