ペーター・コルネリウスカール・アウグスト・ペーター・コルネリウス(Carl August Peter Cornelius, 1824年12月24日 マインツ - 1874年10月26日 マインツ)は、ドイツの作曲家。詩人・翻訳家としても活動し、音楽に関する著作も残している。 生涯少年時代からヴァイオリンを弾き、歌曲の作曲をしていたが、初めて作曲を学んだのは1841年になってからだった。1844年から1852年まで、おじで画家のペーター・フォン・コルネリウス(1784年~1867年)のベルリンの家に身を寄せ、その間にアレクサンダー・フォン・フンボルトやグリム兄弟、フリードリヒ・リュッケルト、フェリックス・メンデルスゾーンら、同地の文化人に出逢う。ベルリン時代の終わりに、いくつかの雑誌に音楽評論を寄稿し、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフやパウル・ハイゼ、ハンス・フォン・ビューローらと親交を結んだ。 コルネリウスの最初の成熟した作品群は、歌劇《バグダッドの理髪師》を含めて、短いヴァイマル時代(1852年 - 1858年)に書かれている。次にウィーンに進出して、5年間を過ごし、リヒャルト・ワーグナーと親交を結ぶ。ワーグナーのしきりの催促で1864年にミュンヘンに定住し、この地で結婚して四児の父親となった。 ワーグナーやフランツ・リストとの交流にもかかわらず、いわゆる「新ドイツ楽派」との関係はぎくしゃくしたものだった。自作の歌劇《ル・シッド》の初演を口実に、ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》の初演に出席していない。オペラの第3作にして最後の試みとなった《グンレート》は、北欧のエッダに基づいているが、作曲者の糖尿病による急死によって、未完成に終わった。同曲は、コルネリウスの作品の編纂に当たったヴァルデマール・フォン・バウスネルンにより完成された。 作品コルネリウスの作品数は比較的少なく、約100曲のリート、23曲の二重唱や、合唱曲(主に男声合唱のための作品)が中心である。多くの声楽曲とすべてのオペラは、コルネリウス自身のテクストに曲付けされている。ピアノ曲も少しく手懸けており、1848年のピアノ・ソナタなどがある。 室内楽・器楽曲
歌劇
合唱曲
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia