ペイン・スチュワート
ウィリアム・ペイン・スチュワート(William Payne Stewart, 1957年1月30日 - 1999年10月25日)は、アメリカ・ミズーリ州スプリングフィールド出身のプロゴルファーである。メジャー大会に3勝を挙げた実力者だったが、1999年の全米オープン優勝からわずか4ヶ月後に、飛行機事故のため42歳で急逝した。PGAツアーで通算11勝、国際試合で合計7勝を挙げる。 来歴スチュワートはいつもタモ・シャンターの帽子とニッカーズの半ズボンをまとい、誰からも見分けがつく風貌とスタイルの持ち主だった。母国アメリカに対する愛国心が強かったことでも知られ、ゴルフウェアに米国国旗をあしらう事も多かった。 4歳からゴルフを始め、「ミズーリ州アマチュア選手権」で優勝経験のある父親から手ほどきを受ける。1979年にプロ入りしたが、この時はアメリカPGAツアーの「クオリファイイング・スクール」(シード権獲得への出場資格試験のこと、通称 Q-School)を通過できなかった。そのため2年間「アジアン・ツアー」を回り、そこで2勝を挙げる。その期間中にトレーシー夫人と結婚。1982年からPGAツアーに参戦を開始し、同年の「クワッド・シティ・クラシック」でツアー初優勝。7年後の1989年に、全米プロゴルフ選手権でメジャー大会初優勝を達成。1991年に全米オープンでも初優勝を果たし、メジャー大会2冠王となった。この時はスコット・シンプソン(アメリカ)とのプレーオフを制している。その後数年間の低迷期が訪れた。 1998年の全米オープンで、スチュワートは優勝まであと1歩に迫りながらも、最後の土壇場でリー・ジャンセン(アメリカ)に逆転負けを喫してしまう。この時の敗北を、当時の新聞は“painful”(苦痛、つらいの意)とスチュワートの名前「ペイン」を引っ掛けて“Payne-ful finish”と報道した。[1] その1年後、「パインハースト・リゾート」(コースNo.2、パー設定70)で開かれた1999年の全米オープンにて、スチュワートは最終日の18番ホールで難しいパーパットを沈め、同じ最終組で回ったフィル・ミケルソンを1打差で振り切り、1 アンダーパー(-1, 計279ストローク)で8年ぶり2度目の優勝を飾った。ミケルソンと1打差の3位タイにはタイガー・ウッズとビジェイ・シンが入る、全米オープン史上稀に見る激戦を制しての優勝だった。9月には1993年以来3回ぶりのライダーカップ米国代表で出場し、米国チームの盛り上げ役をつとめる。賞金ランキング5位の位置につけ、当年度のPGAツアー賞金ランキング上位30名のみが出場資格を得られる最終戦「PGAツアー選手権」の会場に向かう途中で、スチュワートは飛行機事故に遭う。 1999年10月25日、スチュワートはフロリダ州オーランドから2時間の予定でPGAツアー選手権の会場があるテキサス州ダラスに、チャーターしたプライベートジェット機「リアジェット35型」で向かった。しかし彼を乗せた飛行機は飛行中、管制官の無線に応答しなくなり、最終的にサウスダコタ州アバディーンで墜落した。この事故でスチュワートを含む4人の乗客と、2人のパイロットの合計6名全員が落命した(1999年リアジェット35墜落事故)[2]。 スチュワート事故死の報道を聞いて、PGAツアー選手権の会場も悲しみに包まれた。競技の第2日目が中断され、出場選手たちのほとんどがスチュワートの追悼式に列席した。第3日目と第4日目を27ホールずつ消化する競技日程に変更され、世界ランキング1位のタイガー・ウッズが大会初優勝を果たした。2000年の全米オープンの会場となった「ペブルビーチ・ゴルフリンクス」でも、大会開幕に先立ち、前年優勝者のスチュワートを偲ぶ式典が行われた。 スチュワートは悲運の事故死から2年後、2001年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。また2014年には全米ゴルフ協会が選定するボブ・ジョーンズ賞を受賞している。 ツアー優勝PGAツアー (11)
^ 天候の影響で54ホールに短縮 PGAツアープレーオフ記録 (3勝6敗)
ヨーロピアンツアー (1)
日本ツアー (1)
その他 (11)this list is probably incomplete
脚注
外部リンク
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