初代ケント公爵 ヘンリー・グレイ (英語 : Henry Grey, 1st Duke of Kent KG PC 、1671年 9月23日 (洗礼日)[ 1] [ 2] – 1740年 6月5日 )は、イギリスの政治家、廷臣 。
生涯
ゴドフリー・ネラー による肖像画、1705年。
第11代ケント伯爵アンソニー・グレイ とメアリー・グレイ の息子として1671年9月17日にレスト (英語版 ) [ 3] で生まれ、1702年8月に父からケント伯爵 の爵位を、1702年11月1日に母からルーカス男爵 の爵位を継承した[ 1] 。1705年、法学博士 (英語版 ) (LL.D.)の学位を得た[ 2] 。
爵位継承により貴族院 入りを果たしたケント伯爵は才能も野心もないとされたものの[ 4] 、1704年に宮内長官 (英語版 ) に任命され(1710年まで在任)、同年4月27日に枢密顧問官 に任命された[ 1] 。ケント伯爵は人気がなく、体臭で「バグ」(虫)という不名誉なあだ名をつけられた[ 5] 。1706年11月14日にケント侯爵、ハロルド伯爵、ヘレフォード州ゴドリッチ城のゴドリッチ子爵 に叙され[ 6] 、1710年4月28日にケント公爵 に叙された[ 1] 。同年に宮内長官を辞任、シュルーズベリー公爵 が後任となった。一方で同時代の論客ジョン・マッキー (英語版 ) やジョナサン・スウィフト はケントを弁護した[ 4] 。
1710年以降、多くの閑職を歴任することとなった。彼は1711年から1714年までベッドフォードシャー統監 (英語版 ) を、1711年から1712年までバッキンガムシャー統監 (英語版 ) を務め、アン女王の死去からジョージ1世 のロンドン到着までの時期にあたる1714年8月1日から9月18日まで摂政の1人を務めた[ 1] 。また、トーリー党政権期にもかかわらず(ケント公爵はホイッグ党に属した)、1712年10月26日にガーター勲章 を授与されたが、同時に授与された6人のうち5人がトーリー党員でケント公爵だけがホイッグ党員だったため、ケント公爵がアン女王の寵愛を受けていることが見て取れたという[ 3] 。ジョージ1世の治世ではベッドフォードシャー知事に再任されたほか[ 3] 、1714年から1716年まで寝室侍従 (英語版 ) を、1716年から1718年まで王室家政長官 (英語版 ) を、1719年2月から1720年5月まで王璽尚書 を、1719年5月から11月までのジョージ1世の不在中に摂政の1人を務め、1727年8月11日のジョージ2世 戴冠式にも参加した[ 1] 。このように、政治では活躍しなかったものの、宮廷では重要人物の1人だった[ 3] 。
1719年、王立音楽アカデミー社 (英語版 ) に出資した[ 7] 。また、1739年に創設された捨子養育院 (英語版 ) の初代総裁の1人だった[ 8] 。
後継者となる息子に先立たれたため、1740年5月19日にグレイ侯爵 (後継者となる息子がいない場合に孫娘ジェマイマ が継承できるとの規定つき)に叙された[ 1] 。1740年6月5日に死去、フリットン (英語版 ) で埋葬された[ 3] 。グレイ侯爵とクラッドウェルのルーカス男爵はジェマイマが継承、それ以外の爵位は断絶した[ 1] 。
家族
ケント公爵の1人目の妻ジェマイマと娘ジェマイマ、1705年。
ケント公爵は第2代クルー男爵トマス・クルー (英語版 ) の娘ジェマイマ (英語版 ) (1728年7月2日没)と結婚した[ 9] 。2人は少なくとも6人の子供をもうけた。
1729年3月24日、初代ポートランド伯爵ウィリアム・ベンティンク の娘ソフィア(1749年6月14日没)と再婚、1男1女をもうけた。
栄典
爵位
初代ケント公爵(1st Duke of Kent) (1710年 創設のグレートブリテン貴族 爵位)
初代ケント侯爵(1st Marquess of Kent) (1706年 創設のグレートブリテン貴族爵位)
初代グレイ侯爵(1st Marquess of Grey) (1740年 創設のグレートブリテン貴族爵位)
第12代ケント伯爵(12th Earl of Kent) (1465年 創設のイングランド貴族 爵位)
初代ハロルド伯爵(1st Earl of Harold) (1706年創設のグレートブリテン貴族爵位)
初代ヘレフォード州ゴドリッチ城のゴドリッチ子爵(1st Viscount Goderich) (1706年創設のグレートブリテン貴族爵位)
第2代クラッドウェルのルーカス男爵(2nd Baron Lucas of Crudwell later) (1663年 創設のイングランド貴族爵位)
脚注
^ a b c d e f g h Cokayne, G., ed (1929) (英語). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire . 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 177–178. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.210885/page/n187
^ a b "Henry GREY, Earl of Kent (GRY705H)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ a b c d e “The Duke of Kent ” (英語). Bedfordshire Archives and Records Service . 2019年4月28日 閲覧。
^ a b Philip Carter, ‘Grey, Henry, duke of Kent’, Oxford Dictionary of National Biography , Oxford University Press, 2004
^ Paul J. DeGategno & R. Jay Stubblefield Critical companion to Jonathan Swift : a literary reference to his life and works (2006) p. 354.
^ http://www.cracroftspeerage.co.uk/lucasc1663.htm#LUCASCRUD_1663_12 ,2019年10月24日閲覧
^ Milthous, Judith; Hume, Robert D (January 1986). "The Charter for the Royal Academy of Music". Music and Letters (英語). 67 (1): 51. doi :10.1093/ml/67.1.50 。
^ (英語) A Copy of the Royal Charter Establishing an Hospital for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children . p. 4. https://books.google.com/books?id=OX1bAAAAQAAJ&pg=PA4
^ John and J.B. Burke. A genealogical and heraldic history of the extinct and dormant baronetcies of England , Scott, Webster, and Geary, 1838. p. 3 .
外部リンク