ヘレン・レディ
ヘレン・レディ(Helen Reddy、1941年10月25日 - 2020年9月29日)は、オーストラリア出身の歌手、女優。 オーストラリアを代表する音楽アーティストの一人で、1972年のシングル「私は女」が全米チャート1位を獲得し、オーストラリア人として初めてグラミー賞を受賞。アメリカ合衆国に進出したオーストラリア出身成功者の草分け的存在であった[1]。 人物1960年代末にオーストラリアからアメリカのロサンゼルスに渡った。1970年代、国際的な成功を収めた。特にアメリカ合衆国では、ビルボードHot100のトップ40に15曲を送り込み、6曲がトップ10入り、「私は女」「デルタの夜明け」「アンジー・ベイビー」の3曲がナンバー1に輝いた。 レディはビルボードのアダルトコンテンポラリーチャートに25曲を送り込んだ。トップ15を15曲、8曲が6週連続No.1となった。1974年、アメリカン・ミュージック・アワードで、Favorite Pop / Rock Female Artist賞を受賞した最初のアーティストとなった。同年に3曲のヒットを記録した最初のオーストラリア人であった。 テレビ界では、史上初のオーストラリア人司会者として、アメリカ合衆国のテレビネットワークで毎週1時間のプライムタイム・バラエティ・ショーの司会を務め、世界40か国以上で視聴された。 2002年、レディは音楽活動から退き、オーストラリアの大学に戻り学位を取得、臨床催眠術医として、動機づけのスピーカーの練習をした。 2011年、異父姉であるトニー・ラモンドの誕生日に、姉トニーと「Breezin' Along with the Breeze」を歌った縁で、音楽活動に復帰。 「私は女」(1972年)は大衆文化で大きな役割を果たし、第二派フェミニズムの賛歌となった。 彼女は「フェミニストのポスターガール」、「フェミニストのアイコン」として知られるようになった。2011年、ビルボードは28人目のアダルトコンテンポラリーアーティストとして殿堂入り(9人目の女性)。 2015年に認知症と診断されて以降、一線を退く。 2020年9月29日、ロサンゼルスで死去、78歳[2]。フェイスブックで公表された。 私生活20歳のとき、ケネス・ウィートという年上のミュージシャンと結婚。娘のTraciを生んだあと二人は別れる。 1968年、ニューヨーク市ブロンクス出身のジェフ・ウォルドと結婚。レディはウォルドと結婚する前にユダヤ教に改宗している[3]。二人は1972年にジョーダンという息子をもうけた[4]。ウォルドはレディのマネージャーを務めた。1981年1月、離婚。 1983年6月、自身のバンドのドラマー、ミルトン・ルースと結婚。1995年、ルースと離婚。 フィルモグラフィ映画
ディスコグラフィ→詳細は「en:Helen Reddy discography」を参照
スタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
日本公演
脚注
外部リンク |
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