プラート
プラート(伊: Prato ( 音声ファイル))は、イタリア共和国トスカーナ州北西部の都市で、人口約200,000人の基礎自治体(コムーネ)。プラート県の県都である。伝統的な繊維業の町である。 1950年代以降、プラートは多くの移民を受け入れてきた。最初は南イタリア出身者、次いで外国移民、現在は1980年代後半から移り住み始めた中国人移民が最大のコミュニティーをつくっている。 地理位置・広がり隣接コムーネ隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のPTはピストイア県、FIはフィレンツェ県所属を示す。
気候分類・地震分類プラートにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona D, 1668 GGである[4]。 また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 3 (sismicità bassa) に分類される[5]。 歴史古代考古学的発見から、プラート周辺の丘陵には旧石器時代から人が住んでいたことが証明されている。平野はのちにエトルリア人に植民地化された。1998年、近隣のカンピ・ビゼンツィオで、かつてあった名前の知られていない都市の遺跡が発見された。その都市は中程度の規模で、既に羊毛と繊維業の中心地であった。一部の学者によれば、神話上の都市といわれてきたカマル(en:Camar)ではないかといわれている。エトルリア都市は紀元前5世紀まで存続したが、その後打ち捨てられた。原因は不明である。一帯を後に支配するようになるのは古代ローマ人であり、彼らはカッシア街道(en:Via Cassia)を通ってやってきたが、なんの定住地もつくらなかった。 中世中世初期、東ローマ帝国とロンゴバルド人支配が続いた。プラートとしての歴史は、10世紀に2つの村ボルゴ・アル・コルニオとカストルム・プラティ(プラートの城)が知られるようになってから始まる。続く一世紀のうちに2つの村は城の領主アルベルティ家の元で統合された。アルベルティ家は、神聖ローマ帝国よりプラート伯の称号を授かっていた。同じ頃、平野は干上がり、水力システムを調節しビセンツィオ川の水を利用する試みがグアルキエラエ(gualchierae、古い工業用織物機械)を動かすためにつくられた。 マティルデ・ディ・カノッサ軍による包囲戦の後(1107年)、アルベルティ家はビセンツィオ谷にある一族の要塞へ退却した。プラートは、自由コムーネとしてその時から発展することができた。2世紀の間、繁栄する繊維産業と、聖遺物サクラ・チントラ(it:Sacra Cintola)の存在に刺激されて人口は15,000人に達した。2つの新しい市壁列は、それぞれ12世紀半ばと14世紀初頭に建てられなければならなかった。1326年、フィレンツェ共和国の拡大に反対するため、プラートはナポリ王ロベルトをシニョーリ(僭主)として自発的に従属した。しかし、1351年2月23日、ナポリ女王ジョヴァンナ1世・ダンジョは、17,500フローリン金貨と交換に、プラートをフィレンツェへ売り渡した。 近代から現代1512年、カンブレー同盟戦争の最中、プラートは教皇ユリウス2世と神聖ローマ皇帝カール5世によって召集されたスペイン軍により略奪された。彼らはメディチ家のためにフィレンツェ近郊の都市を取り戻そうとしたのである。プラート略奪の過酷さがフィレンツェ共和国の降伏をもたらし、メディチ家支配を復活させた。軍は市街で50,000人ものプラート市民を虐殺した。 1653年、プラートに都市特権が授けられ、カトリックの司教座が置かれた。市は18世紀の間に特に繁栄し、美しくなった。 19世紀のリソルジメント後、プラートは織物において特に国内1位の工業中心地となった(歴史家エマヌエーレ・レペッティはプラートを『イタリアのマンチェスター』と称した)。1901年に人口は50,000人に増加し、2001年には180,000人となった。20世紀から市は多くの移民を受け入れてきた。最近は、10,000人から20,000人いるという中国人コミュニティー(温州市出身者が多い)を抱えている。 行政分離集落プラートには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
みどころ
スポーツサッカープロサッカークラブであるACプラートの本拠である。2017-18シーズンはセリエC(3部リーグ)に属している。 中国からの移民中国(特に温州)からの移民が増えていて、そのほとんどが服飾産業に従事している。現在ではミラノに次いでイタリア第二のチャイナタウンを形成している。[6] 著名な出身者
姉妹都市
脚注
外部リンク |