ブランドン・モス
ブランドン・ダグラス・モス(Brandon Douglas Moss, 1983年9月16日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州ウォルトン郡モンロー出身のプロ野球選手(一塁手または外野手)。右投左打。現在はフリーエージェント。愛称はモス・ドッグ[2]。 経歴プロ入りとレッドソックス時代2002年のMLBドラフトでボストン・レッドソックスから8巡目(全体238位)で指名され、プロ入り。それまでは投手兼二塁手としてプレーしていたが、内野手として入団した。 2006年にはAA級ポートランド・シードッグスで133試合に出場し、打率.285・12本塁打・83打点を記録。 2007年はAAA級ポータケット・レッドソックスでプレーしていたが、忌引休暇でチームを離れたエリック・ヒンスキーに代わって8月6日にメジャー初昇格。同日のロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦で、4回裏からマニー・ラミレスに代わって左翼手の守備に入りメジャーデビュー。8月10日にヒンスキーの復帰によりAAA級ポータケットに降格するが、その後は再昇格を見通して右翼手以外にも左翼手、中堅手、一塁手として出場した。ロースターが40人に拡大された9月1日にメジャー再昇格。レッドソックスの外野陣はマニー・ラミレス、J.D.ドリュー、ココ・クリスプ、ジャコビー・エルズベリーらがいたため層が厚く、出場のチャンスに恵まれない中で15試合に出場し打率.280を記録した。 2008年3月25日、東京ドームで行われたオークランド・アスレチックスとのメジャー開幕戦では、6番右翼手でスタメン出場(試合前の打撃練習で腰の張りを訴えたJ.D.ドリューの代役として出場)。6回表にタイムリーヒットを打ってアスレチックスの先発ジョー・ブラントンをマウンドから引きずり降ろし、1点を追う9回表には抑えのヒューストン・ストリートから自身メジャー初本塁打となる起死回生の同点本塁打を打つ活躍を見せ、レッドソックスの開幕戦の勝利に大きく貢献した。 パイレーツ時代2008年シーズン中、トレード期限となった7月31日にマニー・ラミレス、ジェイソン・ベイを軸としたロサンゼルス・ドジャース、ピッツバーグ・パイレーツそしてレッドソックスの3球団による三角トレードが成立し、クレイグ・ハンセンと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍し[3]、ベイの代わりの外野手として起用される。 2009年は開幕戦スタメンこそ勝ち取るもののギャレット・ジョーンズ、デルウィン・ヤングの台頭もあり、ピンチヒッターとしての起用が多くなる。 2010年はスプリングトレーニングから不振のため、ほとんどをマイナーで過ごす。 フィリーズ時代2011年にフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約。9月に昇格するが出場はほとんど無く、シーズン終了後にFAとなった。 アスレチックス時代2011年12月1日にオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結んだ。 2012年6月6日に昇格し、昇格後9試合で4試合連続を含む6本塁打を放ち不振にあえぐ打線のカンフル剤となった。結局、シーズン通して一塁手としてクリス・カーターとのプラトーン起用されながら265打数でチーム3位の21HR、OPS.954とチームの地区優勝に大きく貢献した。 2013年は、一塁ないし右翼のレギュラーに定着し、145試合に出場。自身初の30本塁打・80打点のラインをクリアし、大砲としてチームに貢献した。30本塁打は、ア・リーグ8位タイの数字だった。守備成績は一塁でも右翼でも芳しくなく、一塁は111試合で7失策・守備率.990・DRS - 12、右翼は27試合で1失策・守備率.978・DRS - 4という内容だった。 2014年1月17日にアスレチックスと410万ドルの1年契約に合意した[4][5]。この年は、自身初めてMLBオールスターに選出された。レギュラーシーズンの成績を、前年を僅かに更新する自己ベストの147試合に出場。2年連続で打率を落として.234だったが、25本塁打を放って81打点を叩き出し、3年連続20本・2年連続80打点のラインをクリアした。喫した三振153は、自己ワーストを更新してしまった。守備では、2013年以上にプラトーン性が強くなり、67試合で一塁、56試合で左翼、34試合で右翼を守った。一塁では5失策・守備率.990・DRS - 4と相変わらず良くない内容だったが、左翼では±0、右翼では + 6のDRSを記録し、外野守備では健闘した。 インディアンス時代2014年12月8日にジョーイ・ウェンドルとのトレードで、クリーブランド・インディアンスへ移籍した[6]。 2015年1月16日に球団と年俸調停を回避し1年総額650万ドルで契約を結んだ[7]。ここでは右翼手のレギュラー格として起用され、移籍するまでに94試合に出場。持ち前のパワーを発揮して17二塁打・15本塁打と長打を量産したが、打率.217・106三振とミート面では芳しくなかった。右翼手の守備は79試合で守りに就き、4失策・守備率.975・DRS - 3という成績で安定感を欠いた。また、10試合で一塁手も守った。 カージナルス時代2015年7月30日にロブ・カミンスキーとのトレードで、セントルイス・カージナルスへ移籍した[8]。 加入後は51試合に出場し、打率は移籍前より上昇して.250だったが、4本塁打・8打点という物足りない数字に終わった。カージナルスでは主に一塁を守り(32試合)、無失策でDRS +1という堅実な成績をマークした。外野では、右翼手(3試合)よりも左翼手(10試合)を多く守った。なお、インディアンス時代との通算では、145試合の出場で打率.226・19本塁打・58打点という成績で、3年連続で続けていた20本塁打以上が途切れた。 2016年は128試合に出場すると4年ぶりに規定打席に届かなかったが、打率.225・28本塁打・67打点・1盗塁という成績で、自身2番目に多い28本塁打をマーク。オフの11月3日にFAとなった[9]。 ロイヤルズ時代2017年2月1日に2年総額1200万ドル(2019年のオプション付き)でカンザスシティ・ロイヤルズと契約した[10]。この年は118試合に出場して打率.207・22本塁打・50打点・2盗塁の成績を残した。 アスレチックス復帰2018年1月29日にジェシー・ハン、ヒース・フィルマイヤーとのトレードで、ライアン・バクターと共にアスレチックスへ移籍した[11]。3月4日に ハイロ・レイバートの加入に伴いDFAとなり、6日に自由契約となった[12][9]。 プレースタイル速球を得意とするパワーヒッターであり[13]、2012年から3年連続で20本塁打以上を放っている。一方で三振が多く、同期間中は出場試合数とほぼ同数の三振を喫している。守備能力はあまり高くないため、一塁手・左翼手・右翼手で起用される。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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