ブライアン・ジャイルズ
ブライアン・ジャイルズ(Brian Stephen Giles、1971年1月20日 - )は、元野球選手。左投げ左打ち。守備位置は外野手。カリフォルニア州エルカホン出身。2004年の日米野球のメジャーリーグ選抜チームとしても来日したマーカス・ジャイルズは実弟。 経歴インディアンス1989年にグラナイト・ヒルズ高校から17巡目でクリーブランド・インディアンスにドラフト指名され、7月18日に契約をする。プロ最初の5年間は平凡な成績であったが、1994年にAAAで128試合に出場し打率.313、16本塁打。58打点の成績を残し注目を集める。翌1995年は開幕からの昇格も期待されたが、マニー・ラミレス、アルバート・ベル、ケニー・ロフトンといった錚々たるメンバーが外野手のレギュラーであったため、AAAからのスタートとなった。このシーズンも123試合出場で打率.310、15本塁打、67打点と結果を残し、セプテンバー・コールアップで昇格し9月16日にメジャーデビューを果たす。1996年も3人の壁は厚く、51試合に出場はしたが主にAAAですごした。ベル、ロフトンが去った1997年はベテランのケビン・ミッチェルらを押しのけ、130試合に出場したが先発は97試合、ロフトンがFAで再加入した1998年は112試合出場で先発90試合とレギュラーの座をつかみ取るまでには至らなかった。11月18日にリリーフ左腕リカルド・リンコンとのトレードでピッツバーグ・パイレーツへ移籍する。 パイレーツパイレーツ初年度となった1999年は39本塁打を放ち一躍スター選手となる。2000年、2001年にはオールスターにも選出された。2002年にはすべてバリー・ボンズに次ぐリーグ2位の出塁率.450、長打率.622、OPS1.072を記録した。当時弱小チームであったパイレーツでは勝負を避けられる傾向にあり、敬遠も多かった。2003年も開幕から正左翼手としてプレーしたが、4月12日に右膝内側側副靱帯を損傷し故障者リスト入りする。5月7日に復帰した。8月26日には、彼の地元エルカホンにほど近いサンディエゴ・パドレスが翌年開場するペトコ・パークの目玉として期待し、オリバー・ペレス、ジェイソン・ベイとマイナー一選手とのトレードで移籍することとなった。 パドレス2004年は広い球場に移ったことで本塁打は減ったが期待通りの活躍をした。2005年は158試合に出場し、両リーグ最多となる119四球、ナ・リーグ3位となる出塁率.423をマーク。3番で67試合、4番で77試合に先発出場し、7年ぶりとなるチームのナ・リーグ西地区優勝に貢献。MVP投票では9位に入った。同年オフにはFAとなるが12月5日にパドレスと再契約した。ヤンキースのスタインブレナーオーナーのウィッシュ・リスト(欲しい選手のリスト)に長年入っていた[2]彼にキャッシュマンGMがコンタクトを取ったが、彼は地元でのプレーを選んだ[3]。 翌2006年も西地区優勝に貢献。2007年はブレーブスでリードオフマンを勤めた弟のマーカスが加入したこともあり、2番打者として開幕からプレー。しかし古傷の右ひざを痛めてしまい5月19日以降は休場し、5月29日には右膝骨挫傷のため故障者リスト入りする。前半戦は1本塁打と精彩を欠いたが、6月29日に復帰して復調、9月には打率を落としてしまったが後半戦は12本塁打と持ち直し[4]、チームのポストシーズン進出争いに貢献した。マーカスの不振により復帰後からリードオフマンとなり、出塁率.368をマーク[5](シーズン通算の出塁率は.361)した。10月3日に内視鏡による右膝軟骨再生手術を受けたが[6]2008年の開幕には間に合った。 契約最終年の2008年、3年ぶりに3割を上回る打率を記録し、自己最多の40二塁打を記録。シーズン終了後の11月7日に球団は900万ドルのオプションを行使することを発表し、2009年もパドレスでプレイすることが決まった[7]。しかし、極度の打撃不振と右膝の関節炎で故障者リスト入りし、7月1日以降残りのシーズンを棒に振った。 2010年2月7日、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだが、3月11日に引退を表明した。 選手としての特徴パドレス移籍以前は30本以上のホームランを放つパワーも見せていたが、本拠地球場が広く、特に左打者に不利なパドレスに移籍してからは本塁打が減少した。優れた選球眼を持ておりパドレス移籍後は出塁率の高さから、1・2番を打つことも多かった。 守備・走塁面では特別な評価はないが、どちらの面でも平均以上の能力は示している。パドレスではライトとしての起用が主だが、それ以前はセンターとレフトも守っていた。 受賞歴・記録
年度別打撃成績
参考資料
外部リンク
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