フレッド・カリー
"フライング" フレッド・カリー("Flying" Fred Curry、本名:Fred Thomas Koury, Jr. 、1943年6月12日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。コネチカット州ハートフォード出身。 "ワイルド" ブル・カリーの実子だが、野獣系の悪相ヒールだった父親とは対照的に、正統派の二枚目ベビーフェイスとして活動[1]。連発式ドロップキックなど "フライング" の異名通りの鮮やかな空中戦を得意とし、女性ファンの人気を集めた[1]。 息子のフレッド・カリー・ジュニア("ザ・ロケット" フレッド・カリー)もプロレスラーとしてデビューしている[4][5]。 来歴学生時代はアメリカンフットボールで活躍し、コネチカット大学ではチームのキャプテンを務めた[3]。1960年代中盤にプロレス入りし、ダラスやフォートワースなどテキサスの東部地区にて、当時ベビーフェイスに転向していたブル・カリーとの親子タッグで活動[6]。1964年7月20日にはクルトとカールのフォン・ストロハイム兄弟を破り、テキサス版のNWAインターナショナル・タッグ王座を獲得した[2]。 1960年代後半からブルとのタッグを解消し、各地を転戦。長年の主戦場となる五大湖地区では、1967年4月29日にビリー・レッド・ライオンと組んでボルコフ・ブラザーズ(ニコライ&ボリス・ボルコフ)から、10月14日にはダン・ミラーと組んでアル・コステロ&レイ・セント・クレアーから、デトロイト版のNWA世界タッグ王座をそれぞれ奪取している[7]。1968年1月末にはTBS体制下の国際プロレスに来日、2月15日の滋賀県大津市大会にて、ダニー・ホッジのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦した[8]。 古巣のテキサスでは1969年3月、ジョニー・バレンタインに負傷させられたダン・ミラーの後任として、フリッツ・フォン・エリックのパートナーに指名されNWAアメリカン・タッグ王者となっている[9]。シングルでも1972年8月2日、ハワイでジン・キニスキーを破りNWAハワイ・ヘビー級王座を獲得、10月28日にザ・シークに敗れるまでタイトルを保持した[10]。同年はWWWFにも参戦しており、10月9日にワシントンD.C.にてジャック・ブリスコと組み、プロフェッサー・タナカ&ミスター・フジのWWWF世界タッグ王座に挑戦している[11][12]。同年はブリスコと共に業界誌プロレスリング・イラストレーテッドの年間最高人気選手(Most Popular Wrestler of the Year)に選出されるなど[2][3]、ベビーフェイスのスターとなって活躍した。 1970年代中盤も五大湖エリアを主戦場に、NWFでは1973年6月30日、ルイス・マルティネスと組んでNWF世界タッグ王座を獲得[13]。NWAのデトロイト地区ではトニー・マリノをパートナーに、キラー・ブルックス&ベン・ジャスティス、クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツなどのチームとNWA世界タッグ王座を争った[7]。同王座は1974年11月にボボ・ブラジルとのコンビでも獲得しており、1975年にもブラジルの弟ハンク・ジェームスと組んでジ・アイランダーズから奪取するなど、通算9回にわたって戴冠した[7]。 1979年に再びWWWFへ登場し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでは3月26日の定期戦でビクター・リベラに勝利。アンドレ・ザ・ジャイアントやイワン・プトスキーともタッグを組み、ジミー、ジョニー、ジェリーのバリアント・ブラザーズやバロン・シクルナなどと対戦した[11][14]。 1980年6月28日、デトロイトのコボ・アリーナで行われたタッグチーム・トーナメントにドリー・ファンク・ジュニアと組んで出場。1回戦でレイ・キャンディ&ボブ・ホワイトを下し2回戦まで進むも、海外遠征中だったジャイアント馬場&ジャンボ鶴田に敗退[15]。この試合は『全日本プロレス中継』でも放送されたが、全日本プロレスへの来日は実現しなかった。 その後セミリタイアし、オハイオなど五大湖地区の試合に時折出場していた[6]。引退後は地元のコネチカットにて実業家に転身している[16]。 得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク |