フルガン (ハダナラ氏)
フルガンは、明朝後期のハダ・ナラ氏海西女直。初代ハダ国主ベイレ王台ワンの長子で、第二代国主。 ワンの死去に伴い、空いた国主の座をめぐって弟カングルと争ったが、即位から一年も経たずして死去した。フルガン歿後のハダは、カングル、末弟メンゲブル、長子ダイシャンが三つ巴となって内訌を起こしたことで、ますますその勢力を衰頽させた。 略歴ワン生前萬曆3年1575、建州右衛の都指揮使・王杲を父ワンとともに捕縛した功績により、フルガンに都督僉事の職が授けられた。この時のハダは勢力最も盛んにして、東はホイファ・ウラ、南は建州マンジュ、北はイェヘに対し絶大な影響力をもった。ワンはさらに龍虎将軍に任命され、東の女直と西の蒙古の間に介在して睨みをきかせながら、両者の結託を妨げて明辺塞の治安維持に一役買った。[3][12] ワンはイェヘのヤンギヌに娘を与えて婿とし自らの庇護の下においたが、[3]イェヘはかつてワンの叔父ワンジュのためにチュクンゲが殺害され、さらに入貢勅書と季勒寨など所領を奪われたことが、羈縻を受けるそもそもの契機になったことから、チンギャヌ・ヤンギヌ兄弟は爾来ワンを恨み続けていた。[注 2]ワンが春秋を重ね、次第に統帥力が衰えてくるのをみた兄弟は、昔年の恨みを霽らすときが来たとばかり、それまでワンの牽制を受けて近づき得なかったホルチン部のウンガダイと姻戚関係を結び、[注 3]密かにハダ所領に兵を引き入れてフルガンと事を構えた。[12][13] 外敵に悩まされたフルガンは諸部に対し残忍な殺戮を繰り返したため、やがて内部に離叛する者が現れた。[3]白虎赤らが前後してイェヘに投じ、イェヘはこれを利用して祖父の故地・季勒寨を奪還した。さらに故地13箇所のうち把吉・把太など5箇所をのぞく部落がイェヘの支配に復したことで、ハダはその勢力を急激に衰頽させ、ホイファ・ウラ、そして建州もが次々とイェヘ同様にハダの羈縻を脱していった。[注 4]ワンは老衰してゆく中でなす術もなく、萬曆10年1582旧暦7月、憂いと憤りの中で病死した。[12] この頃、チャハル部当主トゥメン・ジャサクト・ハーンの甥・小黃台吉[注 5]は、ワンと姻戚関係を結んだ縁故から表向きはフルガンを援助する姿勢をみせつつ、裏では白虎赤の買収を狙い、ハダ勢力の吸収を企んでいた。[2] ワン死後父ワンが死去すると、ハダ国内には次の国主の座を巡って内訌がおこった。ワンの私生子カングルは、ハダ王家の資産を狙ってフルガンと争う姿勢をみせたが、フルガンによる殺害を惧れてイェヘ西城主チンギャヌの許へ亡命した。[5](フルガン歿後、カングルはハダに帰還し、末弟メンゲブルおよびフルガン長子ダイシャンと鼎立して国を三つにわかつ内訌をくりひろげた。) イェヘのチンギャヌ・ヤンギヌ兄弟はワンの死去を知るや、かつてハダに横奪された入貢勅書700道についてフルガンにその返還を索めた。フルガンは、父ワンはイェヘの兄弟の挑発のために憤死したとして拒み、両者はますます溝を深めた。またフルガンは明に対し、嘉靖年間に肥河衛[14]の都督・打吉六や弗思衛[注 6]の都督・勒忒你が死後に祭祀を賜わったことを引き合いに、亡父ワンにも祭祀を賜うよう請願した。[12] 父ワン歿後のフルガンは、明に対して少なくともワンほど忠義を尽くしていたわけではなく、また明もフルガンに対してワンに対するほどの信用は置けなかった。[16]フルガンは父ワンの生前に王杲を明に売り飛ばしておきながら、王杲の遺子アタイをみずからの領地に匿った。[6]アタイはフルガンの庇護にありながら、父・王杲を嵌めたフルガンを恨んだ。同じくハダに宿年の恨みを抱き続けるイェヘのチンギャヌ・ヤンギヌ兄弟とアタイは、共通の敵をもつ者同士、度々策応して明の辺塞を襲った。萬曆10年1582には明からフルガンに対しアタイ捕縛の命令が出されたものの、結局アタイ捕縛には至らず、[5]アタイは萬曆11年1583に李成梁率いる官軍の集中砲火を浴びて陣没した。 死亡時期『清實錄』には、フルガンが国主即位から八箇月で死亡したとあり、[注 7]即位時期について具体的記載はみられないものの、仮に父ワンが死去した萬曆10年1582旧暦7月に即位したとすると、翌11年1583 3月頃に死去した計算になる。明代に編纂された『東夷考畧』に拠れば同11年1582 7月までには死亡 (歾) している。[20] 『太祖高皇帝實錄』には、萬曆16年1588にヌルハチのもとへアミン・ジェジェが嫁ぎ、その際、フルガンが長子ダイシャンに附き添わせてヌルハチのもとへ送り届けさせたとあるが、[21]『太祖武皇帝實錄』および『滿洲實錄』にそのような記載はみられず、明・清代史料ともにフルガンとイェヘのチンギャヌ・ヤンギヌ兄弟は前後して死去したとしている点で一致している。 人物
家系
脚注典拠
註釈
文献実録
史書
Web
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